• 2025年11月30日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2025年11月30日 第五日礼拝メッセージ
    ※本日の聖書箇所「ルカの福音書11章42節~44節」(新約p.139下段左側)
    11:42「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
    11:43 わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ。
    11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」

    ◎メッセージ【偽善者とならない為に】
    《主イエスに、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いしました。何と、そこには、多くのパリサイ人や律法学者たちもいたのです。
    「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」
    主イエスは、ここで「十分の一」献金のことを言われました。「十分の一」について、最も言及したのが、旧約聖書最後のマラキ書です。
    『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私を試してみよ。私があなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。』と。
    私たちの教会では、十分の一献金に対しては、あえて何も言いません。なぜなら、十分の一献金は、教会と会員ではなく、神様とあなたとの個人的問題なのです。
    これは私の見解です。十分の一献金は、捧げなくても神様の祝福はあります。しかし、捧げた方が、神様の祝福がはるかに大きいと思います。
    また、神様への献金は、いやいやではなく、喜んでするものであり、その金額も各々が自分で自由に決めることなのです。
    当時の十分の一とは、穀物(麦・大麦)と家畜の十分の一のことでした。ところが、パリサイ人は、それ以上に十分の一を捧げていたのです。しかし、その動機は、人々に見せびらかすためでした。それゆえに、主は、彼らを偽善者と言われたのです。
    パリサイ人や律法学者たちは、当時、立派な人として、人々から尊敬されていました。彼らは、十分の一献金も実行していましたし、よく伝道もしていました。またよく祈りましたし、また一週のうち二度も断食していたのです。彼らは品行方正でもあり、まさに信仰生活における優等生であったのです。
    しかし、心の中を見る主イエスは、彼らが偽善者であることを見抜いておられました。彼らの関心事は、名誉と地位であり、お金なのです。
    「わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」
    当時のイスラエルでは、春になると、墓を石灰で白く塗る習慣がありました。墓に触れた者は、七日間汚れるからです。よって、巡礼者を墓にふれなくする為に、白く塗ったのです。
    しかし、中には見逃してしまう墓もあったのです。人々は、墓があるのに気づかなく、それに触れてしまうと、やはり汚れました。
    これは、パリサイ人の偽善が、一般のユダヤの人々を汚させることを意味した言葉です。なぜなら、彼らの心の中には、神様への愛はなく、自分が中心だからです。
    彼らは、人々から賞賛されること、そして尊敬されることを求めていました。偽善は、高慢の次に、主が嫌うものです。私たちも、そんな偽善に陥ることのないよう、聖霊様と共に歩んで行きたいものです。》

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