• 日々のみ言葉 2015年7月26日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年7月26日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書3章3節~4節】

    3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
    3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

    ◎ショートメッセージ

    《『イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。』
     なぜこの日、ユダヤ人の会堂シナゴークに、手の萎えた人がいたのであろうか。この会堂はカペナウムの会堂であった。なぜなら2章1節には、『数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。』と書かれたあるからである。しかも、「また」と書かれてある。と言うことは、主イエスが、以前にもカペナウムの会堂に来たことがあると言うことだ。もしその時に、片手の萎えた人がいたとしたら、主は間違いなく癒やされたはずである。つまり、この片手の萎えた人は、カペナウム在住の人ではない。もしその時、何らかの理由で会堂に来ることが出来なかったとしたら、主イエスが宿泊しているシモン・ペテロとアンデレの家に駆けつけるはずだ。なぜなら本人に取って、片手が萎えているということは、決して小さな問題ではなく、大きな問題であるからだ。だとしたら、答えは一つである。パリサイ人と律法学者が、あえて、他の所から連れて来たと言うことである。何のために。安息日に主イエスが、もし彼を癒やしたとしたら、主イエスをユダヤ最高議会サンヘドリンに、訴えるためにである。無理矢理連れて来られた彼は、恐れと不安で、会堂の隅にて震えていたかも知れない。なぜなら、何も聞かされずに連れられて来たはずはないからだ。おそらくパリサイ人と律法学者の「たくらみ」を知らされていたに違いない。それゆえ、主イエスは、彼に「立って、真中に出なさい。」と言われたのである。これは、彼に取って大きな試みである。もしこの時彼が、主イエスの命令に従わなかったとしたら、主は癒やされたであろうか。信仰とは、行動が伴うものなのである。彼は、主に従い、立ち上がった。そして真ん中に出た。そこにいた人々の目は、彼と主イエスとに釘付けとなった。パリサイ人と律法学者は、かたずを飲んで見入っていた。主が癒やすかどうかを。何たることであろうか。主が奇跡を行なったのなら、本来は神を賛美し、拍手喝采であるはずだ。しかしこの時は違っていた。主が癒やしたのなら、それは律法違反、つまり罪を犯したことになると、パリサイ人と律法学者たちは、考えていたのである。それゆえ主イエスは、パリサイ人と律法学者たちに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われたのだ。もちろん彼らは答えることは出来ず、黙っていたのである。パリサイ人と律法学者たちは、彼らが定めた「口伝律法(ミシュナー)」を守っていた。自他共に認めるほどの、宗教家であった。しかし彼らには、「安息日」の本来の意味や目的が、全く分からなかったのである。ここに悲劇がある。自分が正しいと思っていたことが、実は全く間違っていたとしたら、これほどおろかなことはない。サウロがそうであった。サウロは自分が正しいと信じて、クリスチャンを迫害した。自分がやっていることが、神を喜ばしていることと確信していたのである。そこに主イエスが、ダマスコ途上において、彼に直接現われてくださった。「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」「主よ。あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」私たちも、自分が正しいと思うことが、本当は全く見当違いだったとしたら、どうであろうか。まさしく悲劇である。私たちが歩んでいる道は、本当に目的地に続いているのであろうか。常に「聖書」というナビゲーターから、確認する必要があると言える。幸い、私たちには、「助け主」である「聖霊様」が与えられている。このお方の「か細き御声」に、いつも私たちは耳を傾けているであろうか。「ミュートスイッチ」が入っていないだろうか。》

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