◇◆◇日々のみ言葉
2015年7月25日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書3章1節~2節】
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
◎ショートメッセージ
《イスラエルにおいて、安息日とは、今でも土曜日である。もし、私たちが安息日を守るとしたら、同じく毎週土曜日に礼拝を行なわなければならない。そのことを実行している団体が、セブンスデー・アドバンティストの教会である。しかしカトリック教会もそしてプロテスタントの諸教会も、毎週日曜日に、それぞれミサや礼拝を行なっている。なぜか。日曜日は、主イエスが復活された日だからである。私の恩師である岸義紘先生は、毎日が安息日、毎日が礼拝をする日、毎日が主イエスと交わる日である、と教えてくださった。とすれば、毎日礼拝が行なわれても良いはずである。別に日曜日あるいは土曜日と限定する必要はないはずだ。私が関わらせている東京プレイヤーセンターでは、365日礼拝を行なっている。サラリーマンの方々が来やすいように、昼休みの時間帯(12:15~12:45)にあわせて、毎日御茶の水クリスチャンセンター(OCC)4F404号室において、礼拝を捧げているのである。日本に大リバイバルがもたらされたら、毎日大勢の人々が、ここに駆けつけることになるに違いない。また東京プレイヤーセンターでは、毎週月曜日(祝日を除く)に、ITCN(International・Tokyo・Christian・Network)の3つの礼拝が行なわれている。この集会は、やはり私の恩師である中野雄一郎先生が始められた集会で、仕事や何らかの理由で、日曜日に礼拝を守ることができなかったクリスチャンのために開かれたのである。午前集会(10:20~11:30)・午後集会(14:30~15:30)・夜の集会(18:30~19:30)と、全くタイプの異なった3つの集会が行なわれていて、どの集会も自由に参加できる。もちろん超教派の集会であるので、誰でも自由に参加できる。
考えても見れば、日曜日には、多くの人々が仕事をしている。もし緊急医療センターの医師や看護師の方々、電車バス等の公共交通機関を支えている人々が全員救われて、皆、日曜日の午前中の礼拝時間に教会に行くとしたら、電車は全面ストップして動かない、急患の患者の方が出ても、医師も看護師の方も教会の礼拝に出席していて、戻って来るまでお待ち下さいでは、本末転倒である。そのことを主イエスは、今回の聖書箇所において教えておられるのだ。この日も安息日、すなわち土曜日であった。主イエスは、また会堂に入られた。この会堂は、おそらくカペナウムの会堂(今も史跡として跡が残されている)であったに違いない。これからユダヤの定例の集会が始まろうとしていた時である。そこに片手の萎えた人がいた。もしかしたらパリサイ人や律法学者たちが、わざと片手の萎えた人を連れて来たのではないだろうか。なぜなら『彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。』と書かれてあるからだ。「口伝律法」では、緊急性でない限り医療行為は仕事にあたるとして禁止されていたからである。主イエスは言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」主イエスの、この言葉を聞いていたパリサイ人や律法学者たちは、主イエスに対して罠を仕掛けたのだ。何のために。主イエスを、ユダヤ最高議会であるサンヘドリンに訴えるために。もちろん主イエスはすべてをご存知である。私たちは、「今週、あの人は礼拝に来なかった」と、安易に人を裁きやすい者である。もしそうだとしたら、この時のパリサイ人や律法学者たちと同じであり、何も変わらないのではないだろうか。礼拝とは本来は、何であろうか。神様を誉め称えることではないだろうか。それも私個人が、あなた個人が、心からまことを尽くして、魂と体をも捧げて、神様を礼拝するのである。としたら、他人のことは、目に留まらないはずで、もし周りの人を気にかけてばかりいたとしたら、何のために、その集会に参加しているのであろうか。》