2015年7月27日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書3章5節~6節】
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。
◎ショートメッセージ
《なぜ主イエスは怒られたのか。主イエスは、パリサイ人と律法学者に質問された。「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」、その質問に対して、彼らは答えることができなかった。なぜか。善を行なうこと、いのちを救うことは、まさしく良い行ないである。もしそのように答えたのなら、主の癒しのみ業を誉め称えることであり、容認することとなる。もし安息日に、悪を行うこと、殺すことが正しいと言えば、彼らはまさしく律法に反し、そのような見識を持つ者ならば、「ラビ」という肩書きを失うだけではなく、ユダヤ社会からは相手にされなくなってしまうであろう。問題は、彼らの心の中にある邪悪さにある。旧約聖書を知り尽くし、「律法」を妥協することなく守り、自他共に認める宗教家であった彼らは、自分たちだけが正しいと思い込み、主イエスの手によって行なわれる神のわざを、認めることも、信じることも出来なかったのである。なぜか。主イエスが言われたように、彼らの心が頑なだからである。主は、その心の頑なさを嘆かれた。今でも多くの人々が、心が頑なである。出エジプト記には、神様はパロの心を頑なにされたと書かれてあるが、多くの人々は、自分で心を頑なにしているのである。自分が学んだこと、自分が経験したこと、自分が築き上げたこと、それらをもとに、神様がおられることも、神の言葉である「聖書」も、救い主である主イエスをも、信じようとはしない。いつも「自分が」、「自分が」である。決して「主イエスが」、「主イエスが」ではないのである。主は、片手の萎えた人に言われた。「手を伸ばしなさい。」ここにも信仰の行動が求められている。片手の萎えた人は、手を伸ばすことができない。それにも関わらず、主は彼に手を伸ばすよう命じられたのだ。信仰とは何か。それは主イエスの言葉を、心の奥底から信頼し、その言葉に全身全霊をかけることではないか。片手の萎えた人は、主の言葉を信じ、伸ばすことができない手を、伸ばそうと決心し、決意し、意思を持って伸ばそうとした。その時に、奇跡が起こったのである。彼の手は、健全なもう片方の手と同じように、たくましい手と一瞬にして変えられた。元どおりになったのだ。この奇跡を、パリサイ人や律法学者たちは、目の当たりに見た。なぜなら、主イエスが癒やすかどうかを、じっと見ていたからである。萎えた片手が癒やされた人は、喜びに満ちあふれ、飛び上がって、感謝の言葉を叫びながら、涙を流しながら、走り回ったに違いない。そして、その癒やされた手で、何度も主イエスに握手をしたに違いない。私だったら、そうするだろう。それだけではない。会堂にいた多くの人々も感激し、同じように喜びに満たされていたはずだ。しかし、もう一つの別な集団も居合わせたことも事実である。苦虫を噛みつぶしたような、苦々しさを顔全面に表わして、憎しみと怒りとをその目に宿らせ、足早に、会堂を出て行く一団である。パリサイ人や律法学者たちだ。本来ならば、彼らは敵対関係であったヘロデ党と、ここで手を組むことになる。その目的は、主イエスをどうやって葬り去るか。そしてその相談を始めたのだ。敵も共同戦線を張り始めたのである。主イエス対パリサイ人や律法学者たち、「安息日論争」は、まだまだ続くこととなる。信仰とは何か。今日、私たちも主イエスの言葉を、もう一度信じ、信頼し、弱った手を伸ばそうではないか。弱った足で立ち上がろうではないか。》