◇◆◇日々のみ言葉
2015年7月28日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書3章7節~8節】
3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、
3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。
◎ショートメッセージ
《なぜ、主イエスは弟子たちと共に、ガリラヤ湖の方へ退かれたのであろうか。この時、もうすでに主イエスの評判は、かなり広まっていたと思われる。カペナウムの会堂に、主イエスが弟子たちと入った時には、もうガリラヤから大勢の人が待っていたと考えられる。そしてその会堂において、主イエスは片手の萎えた人をお癒やしになった。それを見た人々が、主イエスのもとに駆けつけ、回りを取り囲んだとも言える。あまりの大勢の人々が詰めかけたため、主はあえて弟子たちと共にガリラヤ湖の方へ、おそらくペテロとアンデレの船が置いてある当たりまで、避難して来たのである。この時、多くの病の人を癒やされたのも、また悪霊を追い出されたのも、主イエスお一人でなされた。まだ弟子たちには、その権威が与えられていなかったのである。主イエスは、ご自身の『公生涯』の期間を知っていた。ご自身に与えられた時間を知っていた。これから主イエスが成し遂げなければならないことは、十二弟子たちの訓練にあった。この時、弟子たちはまだ傍観者であったのだ。しかしやがて彼らは、主イエスに遣わされることになる。主が十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に蘇えられ、そして弟子たちの目の前で、昇天された後は、確実に主イエスから、弟子たちにバトンが渡されるのである。さて、この時、エルサレムから、イドマヤから、地中海沿岸のツロやシドンからも、大勢の人々がみもとにやって来たと言う。当然当時は、電話やテレビなどはあるはずもなく、すべて「口コミ」の結果である。またそれほど、多くの人々が病にかかり、また悪霊に取り憑かれたいたということである。今から二千年ほど前に、まことの神であり、と同時にまことの人であったお方が、確かに歴史上の人物として、この地上に存在された。それはまさしく、「インマヌエル」神が共におられる、と言うことである。もし、現代でも、本当に教会に神が共におられたとしたら、かつてのユダヤの会堂において、主イエスが生きておられた時と同じように、多くのみわざがなされたとしたら、大勢の人々が教会に駆けつけてくるのではないだろうか。しかし主イエスは、今どこにおられるのか。天の父の右の座に座しておられるのだ。今この地上には、主イエスが約束された「聖霊なるお方」慰め主であり、助け主であるお方が、おられる。ではどこに。私たち救われた者の内に、内住しておられる。としたら、主イエスがバトンを、弟子たちに渡されたように、私たち一人一人にも、そのバトンが主イエスによって手渡されているのではないだろうか。当時、主イエスお一人で、すべてのみわざを成すことは、物理的にも無理であった。考えても見れば、私たちが一人で出来ることは、体力的にも精神的にも、限られることは当たり前である。この時、弟子たちは思ったかも知れない。『主イエス様が疲れ切ってしまわないだろうか。私たちには、イエス様のお役に立つことはできないだろうか。』と。私たちは、主イエスの弟子である。主は言われた。「誰でも私の弟子になりたい者は、日々自分の十字架を背負ってついて来なさい。」と。私たちは、主イエスが言われたように、毎日、主イエスの十字架を見上げ、そして自分自身に与えられた任務、すなわち十字架を、いつも背負い続けているだろうか。それとも、時々、背中からその十字架を降ろしたりしていないだろうか。もう一度、考えたいものである。》