◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月17日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章13節~14節】
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」
◎ショートメッセージ
《主イエスは、弟子たちに「たとえ」を用いて、霊的真理を教えられ、弟子訓練をされたのである。主は、「種を蒔く人のたとえ」を話された。
『「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(マルコの福音書4:3~4:8)』
主の弟子たちは、このたとえが分からなかった。それゆえ主イエスに尋ねたのである。主は、「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」と、弟子たちを戒められた。
弟子たちにして見れば、踏んだり蹴ったりである。なぜなら、主のたとえ話の意味が分からないから、解き明かしをお願いしたのに、叱られてしまったからである。
実は、これは主イエスの、ちょっとしたユーモアでもあったのだ。この後に、主イエスが語られる「解き明かし」を、しっかりと弟子たちに覚え込ませるためでもあったのである。それゆえ、この「種を蒔く人のたとえ」は、マタイ・マルコ・ルカの3つの共見福音書に詳細に書き記されてあるのである。
主イエスは、「解き明かし」を始められた。
「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」
み言葉とは、何であるのか。それは「福音」である。「良き知らせ」である。この時には、まだ主イエスは十字架には架かっていない。とすれば、どういうことか。それは「主イエスこそ、救い主である。」と言うことである。「このお方こそメシヤなるお方である。」と言うことを信じることにある。
今、私たちには、このみ言葉の「種」が与えられている。
使徒パウロは、愛弟子のテモテにこのように勧めたのである。
『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(第Ⅱテモテへの手紙4:1~4:2)』
この終わりの時代。私たちは、えてして「あきらめの境地」に、陥ってしまいやすい。
しかしパウロは、こう言うのである。
『神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。(ローマ人への手紙11:2~11:5)』
決してあきらめてはならない。異邦人の時は、まだ終わっていない。救いに導かれる異邦人の数は、まだ満ちてはいない。この日本に神の時は、必ず訪れる。》