◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月18日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章15節】
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
◎ショートメッセージ
《今日からいよいよ、主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ話」の、主による解き明かしの解き明かしに入って行くこととなる。風に乗って、種は、「道ばた」「岩地」「いばらの地」「良い地」へと飛んで行くのである。今回は「道ばた」に飛んだ種である。
「種」とはみ言葉である。そして、その蒔かれた地とは、何であるのか。それは、人の心の状態を指し示す。人は魂を持っている。日本語は、意味が曖昧なことが多く、「魂」と「霊」あるいは「霊魂」とは同じものであると、広辞苑でも、そのように解釈している。しかし、本来「魂」と「霊」とは、全く別のものである。
私たち人間は、霊的存在である。その本体は「霊」である。そしてこの霊は、不滅である。よって本当の私たちは、「魂」を持っている「霊」である。「魂」とは、その人をその人としているもの、すなわち「人格」「性質」であり、知識や経験によって培われた、その人そのものの本性とも言って良い。この「魂」を持った「霊」が、私たちの見えるもの、触れるものである肉体に住んでいるのである。
神はこのように言われた。
『「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:26~1:27)』
創造主なる神は、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体なるお方である。それぞれの方が「人格」を持っておられ、互いに愛し合い、違いがあるにも関わらず、それでいて一人のお方なのである。
私たち人間は、このお方に似た者として創造された。人は、「霊」「魂」「肉体」の三位一体の存在なのである。これは、まさしく創造の不思議なる奥義であるとも言える。
み言葉が蒔かれた地、すなわちその人の心、あるいは魂が「道ばた」であった、とはどういうことか。
「すべての道はローマに通ず」
この有名なことわざは、17世紀、フランスの詩人ラ・フォンティーヌが書いた『寓話』の『裁判官と修道士と隠者』にある言葉「All roads lead to Rome.」に基づくものである。
ローマ帝国の大きな偉業は、今でも史跡として残されている「アッピア街道」のように、まるで現代の舗装技術を上回るような「道」を整備したことにある。その道は、屈強なローマ軍の戦車が通ろうとも、びくともしないほどに石を何層にも重ねて、そして正面は平坦にされていた。
つまり「道」とは堅いのである。「道ばた」の心とは、「堅い心」あるいは「頑な心」のことを指す。それは「頑固な心」とも言える。頑固者ほど、扱うことは難しい。常に自分が正しい、自分の考えを決してまげようとはしない。そのような「頑な心」、「堅い心」の持ち主が、み言葉を聞いても、福音の種が蒔かれても、芽生えることなく、すぐに悪魔が、「主イエス・キリストという真理」を持ち去ってしまうということである。
私たちの心は、どうであろうか。良く耕された柔らかい土地であろうか。まだ堅い部分、つまり取り除かれていない大きな石、堅い石が、どこかに埋まっていないだろうか。今一度、聖書(み言葉)という「くわ」によって、確認してみたらいかがか。》