• 日々のみ言葉 2015年8月19日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年8月19日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章16節~17節】

    4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
    4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

    ◎ショートメッセージ

    《ある宗教調査によれば、日本のクリスチャンの数は、総人口の5%だと言われている。これは、キリスト教と称するものを全部含めた数字であって、その中には、カトリック教会、ギリシャ正教が含まれることはもちろんである。しかしそればかりではない。異端と言われている、「エホバの証人」「統一教会」「モルモン教」さえも含んでいるのである。

     礼拝やミサに出席する、いわゆる教会活動をしている実質的信徒の数は、1%の壁を破れないと言われてから、いったい何年、いや何十年が過ぎ去ったことであろうか。

     ここ最近は、一部の教会を除いて、礼拝出席者数が、激減していると聞く。日本の教会の危機は、もう深刻な状況であると言ってもよい。

     特に、数年前から、神学校に入学する若者たちの数が、引退する牧師先生の数には、遙かにおよばないと言われている。地方においては、素敵な礼拝堂があるにも関わらず、無牧の教会が、いくつも存在し、深刻な牧師不足が言われ続けている。

     毎年、その数は減少を続けているが、受洗する信徒は、それでも存在する。洗礼を受けることは、クリスチャンになることである。その洗礼を授かった教会、主イエス・キリストを主として告白している教会の会員になることでもある。
     それにも関わらず、なぜ日本の活動的信徒数は、増えないのであろうか。総人口の1%の壁を破れないのであろうか。

     答えは一つである。教会に加わる者の数と同じらい、いやそれ以上の教会員が、教会を去って行くのである。すでに救われた者が、信仰を捨てて行くのだ。

     ある牧師先生は、冗談交じりにこのように言われたことがあった。
    「日本のクリスチャンの寿命は、3年です。」と。
     これは、決して笑うことができない冗談である。ブラックユーモアどころではない。

    そして、その後に、続けてこう言われた。

    「1%の中に入る皆さんは、多くのクリスチャンの屍(しかばね)を乗り越えて、踏み越えて、かろうじて生き残ったのです。」と。「かろうじて」である。

     韓国はクリスチャン大国である。その韓国の研修会に出席したある牧師先生は、宿泊先の教会役員の自宅にて、一人の若い娘さんとこのような話をされたとの事である。
    「恥ずかしいことですが、日本は、韓国のクリスチャンの数には、遠く及ばす、未だに1%も満たないのです。99%がまだ救われていないのです。」すると、その娘さんは、
    「それは、恥ずかしいことではありません。神様に取って先生は、救われた1%の中に属する、貴重な存在のクリスチャンであり、しかも、その中においても、さらに数少ない牧師先生ではありませんか。私は、そのことに感動しました。」と。
    「大いに励まされました。」とその牧師先生は、後ほど報告されたとの事でした。

     例え、多くの受洗者がいたとしても、大きな網から小さな魚がこぼれて行くように、「岩地に蒔かれた種」のように、すぐにつまづき、教会を去って行くとしたら、あるいは信仰を捨てて行くとしたら、日本のクリスチャンの数は、減ることはあっても増えることはない。

     では、どうしたら良いのか。
     その答えは、主イエスが、この聖書箇所で、はっきりと教えている。
    つまり「根を張る」ことである。根は、成長に必要な養分と水分を吸い上げることができる。根がなければ、どうやって、芽生えたばかりの芽は、生き続けることができるだろうか。
     では「根」とは何であるのか。
     それは、「み言葉」である。「聖書」である。そして「デボーション」である。すなわち、「み言葉」を通しての、主イエスとの、聖霊なる神様とその人自身との、生きた「人格」と「人格」との交わりである。

     人間は、孤独である。最終的に決断するのは、結局その人自身である。しかし主イエスは、私たちに聖霊様という「助け主」を送られた。その方は「慰め主」でもある。
     「助け主」なるお方は、いつも「み言葉の解き明かし」を導いてくださる「み言葉」つまり「聖書」に留まることこそが、根を張ることである。

     つまづきはさけられない。悪魔・悪霊どもは、何としても新生したクリスチャンの信仰を、救いの確信を奪おうと、躍起になっている。敵を過小評価してはならない。

    「聖書」「み言葉」に、留まり続けることこそが、「信仰」を確乎たるものとし、そしてたとえ困難や迫害が起こったとしても、主イエスの側に居続けることができる保証を与えてくれるものなのである。》

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