◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月20日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章18節~19節】
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
◎ショートメッセージ
《「いばら」を知っておられるだろうか。鑑賞用のバラではない。「いばら」である。天然のバラと言っても良い。「野バラ」とも呼ばれているものである。
満31才という若さで亡くなった、まさしく天才作曲家の一人であったに違いない、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルトは、歌曲王として有名であるが、その才能が惜しみなく発揮された本当の傑作は、交響曲にある。
なぜか、2楽章までしか作曲されなかった「未完成交響曲ロ短調」、そして遺作となった最後の交響曲「ザ・グレート・ハ長調」、この2曲は交響曲の中においても不滅の光を放っている。また多くの前期・後期ロマン派の作曲家たちの交響曲に、多大な影響を与えたのであった。
そんなシューベルトが作曲した歌曲の中に、よく高等学校の音楽の教科書にも掲載されている有名な歌曲「野バラ」がある。日本語歌詞は、近藤朔風(さくふう)が担当した。
1.童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かずながむ
紅(くれない)におう 野なかの薔薇
2. 手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇
3. 童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香(いろか)
永久(とわ)にあせぬ
紅におう 野なかの薔薇
かつて私の自宅の裏庭に、この野バラ、つまりいばらがなぜか咲いていた。このトゲがたいへんに、するどくまた堅いのである。このいばらを引っこ抜くのに、本当に苦労した。しっかりと軍手を二重にして取りかかったのであるが、それでも手の平からは、何カ所か血がにじんだことを覚えている。「いばら」とは、そういうものなのである。
主イエスは言われる。「世の心づかい」「富の惑わし」「欲望」が、「いばら」であると。
私たちの心の中に、何があるのか。私たちの心の中を何がしめているのか。
『あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイの福音書6:21)』
『誰も、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイの福音書6:24)』
『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もし誰でも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(第Ⅰヨハネ2:15~ 2:16)』
私たちが実を結ぶことを、主イエスは期待しておられる。もし、私たちの心の中に「いばら」の根が、まだ残っていたとしたら、やがてその根は、簡単に抜くことができないほどに成長するかも知れない。「み言葉」というシャベルを持って、心の中を掘り下げる必要があることは、言うまでもない。「いばら」は必要のないものである。》