◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月21日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章20節】
4:20「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
◎ショートメッセージ
《「良い地」とは何であろうか。その人の心が、「地」であることは、前回すでに学んだ。
主イエスは、人がみことばを聞いて受け入れる、そのような心を持っている人こそ、「良い地」であると言われるのだ。
誰でも、生まれながらにして「偏見」なり、「先入観」というものを持っている。また、自分なりの「判断」や「考え」を持っているのが普通である。
そして、今まで生きて来た時に、学んで来たこと、経験して来たこと、考えて来たこと、感じて来たことが「偏見」となって、主イエスが語られた「みことば」や、主イエスがなされた奇跡やしるしを信じ、受け入れることができないのである。
新約聖書が完結したのは、今から1,900年ほど前である。そこに書かれていることは、今現在を考えると、遙かに昔の出来事である。それにも関わらず、未だに全世界においては、ベストセラーなのだ。
確かなことは、その当時よりも、確実に科学も医療も文明も発達している。そのような見地からとしたら、「神が始めに天と地を創造された」「処女マリヤから生まれた」「水の上を歩いた」「復活された」「萎えた手がもとに戻った」などということは、信じがたいことである。なぜなら、経験したことがないからである。見たことがないからである。
主イエスは、使徒トマスに、ご自身の愛を示されながら言われた。
『「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書20:29)』
また主イエスは、弟子たちに、このようにも言われたのである。
『私はまことのぶどうの木であり、私の父は農夫です。
私の枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、私があなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
私にとどまりなさい。私も、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もし私にとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなたがたが私にとどまり、私のことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネの福音書15:1~15:8)』
主イエスは、私たちが実を結ぶことを大いに期待されている。三十倍、六十倍、百倍の実がなることを。
「みことばを聞いて受け入れる」人こそ、主イエスが、実を結ばせてくださるのである。
「受け入れる」と言うことは、「信じる」ことである。「信じる」者には、行動が伴うものなのだ。それこそが、生きた「信仰」である。
もし、信じることができない者は、「信仰」を与えてくださるよう、主イエスに、聖霊なる神様に、祈り求めてはどうか。「信仰」は「賜物」である。「賜物」であるならば、主イエスは、求める者に、必ず与えてくだされる。》