◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月16日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章10節~12節】
4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
◎ショートメッセージ
《主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を話された。しかし、弟子たちは、そのたとえの真意を理解することができず、主の言われる真理を汲み取ることができなかった。それだからこそ、大勢の群衆が去って行った後、主イエスに、質問したのである。
「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。」
ここに、「たとえ話」には、解き明かしが必要不可欠であることが分かる。主イエスは、おもに弟子たちを訓練するために、あえて「たとえ話」を用いられた。なぜか。主が選ばれた十二使徒たちは、見てもわかるように、全く普通の人々であったからである。
もし、パリサイ人や律法学者、祭司長やサドカイ人たちのように、当時のユダヤにおける、上流階級や、政治的かつ宗教的指導者の人々の中から、主が使徒を選んだとしたら、どうであっただろうか。もちろんあり得ないことではあるが。
主イエスが復活され、オリーブ山において弟子たちの見ている中で、昇天された後、主イエスは、「異邦人への使徒」として、上流階級の出身であり、当時のユダヤにおける最高に優秀な人物であったに違いない、サウロ(後のパウロ)を選ばれたことは、誰もが知っていることである。サウロは、主イエスが公生涯の三年半にわたる期間に、主イエスとは人格的な出会いを、経験しなかったことも、私たちは知っている。
主イエスは、ガリラヤの漁師たちを選ばれた。そればかりではない。ユダヤ人に忌み嫌われている取税人を選ばれた。十二使徒の半数である六人は漁師と取税人。そして残りの六人でさえも、ごくありふれた人々であった。まさしくパウロが言う通りである。
『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前で誰をも誇らせないためです。(第Ⅰコリント1:26~1:29)』
それゆえ主イエスは、ご自分の選ばれた弟子たちに、「たとえ」を用いて、真理を教えたのである。その「たとえ」に隠されている奥義を、主ご自身の解き明かしを通して、彼らに教えたのである。
しかし「他の人には」、特に自分たちこそだけが正しいと自負してやまないパリサイ人や律法学者たちには、「神の国の奥義」が、自分たちの知識や経験では分からないように、解き明かしができないように、あえて「たとえ」を用いられたのである。
まさしく、主が言われる通りである。
「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないためです。」
しかし、そうであっても、主イエスの不思議な選びの摂理により、エルサレム神学校の校長ニコデモや、アリマタヤのヨセフのように、七十名から組織されるサンヘドリン議員の中から、パリサイ人や律法学者たちの中から、救いに選ばれた者が存在したことも事実である。
私たちには、神の選びの摂理は分からない。分かるはずもない。なぜなら主権は、神に、主イエスにあるのだから。
主イエスは言われた。
「あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と。そのことを、決して忘れてはならない。》