• 日々のみ言葉 2018年6月16日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2018年6月17日(日)

    ◎聖書箇所【ルカの福音書23章26節】
    23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。

    ◎ショートメッセージ
    《ポンテオ・ピラトは、何とかイエス様を釈放しようと試みました。それは、大祭司カヤパを筆頭とする祭司長たちや、パリサイ人や律法学者たちが、ねたみからイエス様を引き渡したことに気づいていたからです。
     そして、彼の妻クラウディアが、
    「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」と伝えて来たからです。

     そしてユダヤ人の指導者と群衆に向かって、四回にわたってイエス様の無罪を主張し、また三回にわたって釈放することを宣言しました。

     しかし、ここに神様の大きな摂理が働いていました。それは、『毎年過越の祭の時には、民衆が望む囚人をひとり釈放する』、と言うならわしがあったのです。

     このならわしが、いったい何時から始められたのか分かりかねますが、もしかしたら、ピラトがローマ総督としてエルサレムに着任した時に、ユダヤ人の好意を得る為に、自ら始めたものかも知れません。

     ユダヤにおける贖いのいけにえの実際は、二匹の羊か山羊が必要とされ、一匹は犠牲となって屠られ、もう一匹は、犠牲となった動物の血によって頭に按手を受け、荒野に放たれることになるのです。

     私は、ポンテオ・ピラトは、ユダヤ人の国民性、宗教、風習、文化全般にわたって、かなりの知識を持っていたと考えています。
     それゆえ、ユダヤ最大の祭りである「過越の祭」の時に、ひとりの囚人を釈放することは、ユダヤ人の脳裏に刻まれた伏線に触れ、満足するものでもあったのです。

     しかし、今回はそれが真逆に働きました。よってピラトは、自らが設定したならわしによって、何の罪もないことを宣言したにも関わらず、主イエス様を十字架につけ、そして大悪党バラバを釈放しなければならなくなったのです。

     しかもイエス様は、ムチ打ちの刑をも受けられたのです。ローマ兵の護衛の中、イエス様はゴルゴタの丘へ、死の行進をすることになります。囚人は自ら、自分が釘付けされる十字架を担がなければなりません。

     イエス様の背中は、39回以上のムチ打ちの刑により、背骨が見えるほど傷だらけになっており、すでにイエス様の体は、ボロボロでした。
     イエス様は、十字架を担いで歩かれるのですが、何回か倒れられるのです。

     そこにたまたま、クレテ島出身であるシモンと言う男が、妻と二人の子供を連れて通りがかりました。
     その二人の子供の名前は、アレキサンデルとルポスであることを、後にマルコは福音書に書き記しています。

     その後、シモンの家族によって、クレテ島に大リバイバルが起き、クレテ島が主の島に変えられたことが伝えられています。

     使徒パウロは、
    『主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。(ローマ人への手紙16:13)』と書いています。

     このルポスは同一人物であると言われています。と言うことは、名前は分かりませんが、シモンの妻でありルポスの母である女性は、パウロに取っても母のような存在であったことが分かります。

    『彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。』

     もしこの時、シモンがここを通りがからなければどうなっていたことでしょう。神様のなさることには、偶然はひとつもないのです。すべてが必然なのです。》

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