• 2018年6月17日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年6月17日第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章22節~26節】 (新約p.192下段右側)
    14:22 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
    14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでも私を愛する人は、私の言葉を守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
    14:24 私を愛さない人は、私の言葉を守りません。あなたがたが聞いている言葉は、私のものではなく、私を遣わした父の言葉なのです。
    14:25 このことを私は、あなたがたと一緒いる間に、あなたがたに話しました。
    14:26 しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

    ◎メッセージの概要【主が共に住んで下さる人】
    《ルカのこの記述から、十二使徒の中にユダと言う名の者が二人いることになります。当然ユダ部族の出身であるわけです。マルコの福音書における十二使徒の名前の中には、
    『シモン、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネ、次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。』と書かれています。
     またルカでは、『ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。』となっていて、そこから比べ合わせますと、タダイと言う使徒がヤコブの子ユダと同一人物で、イエス様に質問したことが分かります。
    「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
     この質問は、イエス様がその前に言われたことに対するものです。
    「私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です。私を愛する人は私の父に愛され、私もその人を愛し、私自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:21)
     しかし、イエス様の関心事と、ヤコブの子ユダおよび他の十人の使徒たちの関心事とは、ずれていることが分るのです。
     つまり使徒たちは「政治的メシヤ」であるイエス様を期待していたのです。それゆえ、「なぜメシヤとして世に示されないのですか。」と言う意味の質問なのです。
     イエス様は、もう一度、
    「だれでも私を愛する人は、私の言葉を守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」と言われたのです。ここで「言葉」と使われている原語は「戒め」と同じ原語です。
     それでは、主イエス様が弟子たちに言われた「戒め」あるいは「言葉」とは何なのでしょうか。それは、
    「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と言われたことなのです。
     クリスチャン同志、互いに愛し合いなさい、と言うことなのです。そしてそれは、教会においても、また様々な教派の教会であっても、互いに認め合い愛しなさいと言う意味でもあるのです。
     カトリック教会とプロテスタント教会においても、主イエス様を信じる者は、互いに愛し合いなさい、と言う教えなのです。
     これが主イエス様が、旧約聖書によって与えられた律法に代わる「新しい戒め」なのです。
     イエス様は、やがて将来に、主の御体である教会が、分裂し憎み合うことを予知しておられたと思われます。確かに私たちと同じまことの人でありましたが、と同時に創造主であられる神様でもあったのです。神様にはすべての時間が現在時制です。もっと言うならば時間でさえも、神様が造られたものなのです。
     日本に大きなリバイバルが起こる為には、日本の数少ないクリスチャン同志が、互いに愛し合う必要があると、私たちの群れの指導者である尾山令仁先生は言われています。
     もちろんこれはとても大きな課題であるわけで、まず私たちは身近な所から始める必要があるのです。
     それでは、どうしたらお互いに愛し合うことが出来るのでしょうか。使徒ヨハネは、その第Ⅰの手紙にこう書いています。
    『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
     私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』
     ここでヨハネが言っていますことは「十字架」の他の何ものでもありません。イエス様の「十字架」こそ、神様の愛が示されたのです。十字架によって罪が赦され、そして「永遠のいのち」が与えられたのです。
     しかし、ここで不思議に思うことがあります。なぜ「愛の手紙」と呼ばれているこの手紙をヨハネが書くことが出来たのでしょうか。
     それは、ヨハネはイエス様の愛を知っていたからです。イエス様が昇天されてから、少なくとも60年以上経て後、ヨハネが書き記した福音書には、十二使徒のひとりであるゼベタイの子ヨハネは登場しないのです。代わりに用いられている名が、「主の愛された弟子」です。
     ヨハネの福音書の最後の章、21章にはこう書かれています。
    『ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
     ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「私の来るまで彼が生きながらえるのを私が望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい。」
     そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「私の来るまで彼が生きながらえるのを私が望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。
     これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。』
     ヨハネは、その福音書にはっきりと、自分自身が主イエス様に愛され、可愛がられた者であることを明確にしました。しかし他の使徒は誰も異議を唱えることは出来なかったのです。なぜなら、この時ヨハネだけが、生き残った最後の十二使徒のひとりであったからです。
     結論を言います。
      愛された者だけが、愛することが出来るのです。イエス様は、まことの人であられました。そして創造主なる神様です。つまりヨハネは、神様と人の同時に愛されたのです。だから愛を知っており、愛することが出来るのです。
     もちろん神様の愛は、十字架によって完成されています。しかし私たち一人一人は、主イエス様が愛された弟子であるヨハネと同じように、イエス様の愛を個人的に受ける必要があります。
     イエス様は、私たち一人一人を本当に愛しておられます。しかしその愛をその人が感じることが出来なければ、いくら理屈で言ったとしても、分からないのです。
     イエス様の無限の愛を感じることが出来る様、愛されていることが分かるよう、祈り求めるべきです。そうすればイエス様は、あなたに愛を示して下さいます。
     あなたに分かる方法で。ただ私たちの願うことよりも、神様の側からの方法で、愛を示して下さるのです。その時、あなたの口から、イエス様への賛美と感謝があふれ出て来ます。 イエス様の愛を体験しましょう。実感しましょう。「主の愛された弟子」とは、ヨハネひとりだけではありません。あなたも私も、「主の愛された弟子」なのです。》

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