◇◆◇日々のみ言葉
2018年6月18日(月)
◎聖書箇所【ルカの福音書23章27節】
23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
◎ショートメッセージ
《日々のみ言葉も、今日で何と丸三年が終わろうとしています。明日から四年目となります。よくここまで続け来られたと、驚いています。
これは自分だけの力では、成し遂げることが出来ませんでした。聖霊様の助けがなければ途中で挫折していたからです。
よく「継続は力なり」と言われていますが、これも読んで下さる方が、一人でもおられることを信じているからこそ、出来るのです。
そして今、記念すべき365回×3年=1095回目を読んでおられる方に、ぜひお願いしたい事があります。それは、私がさらに続けることが出来るように、祈りのバックアップをしていただきたいのです。
クリスチャンの最大の武器は「祈り」です。しかもその祈りの中において、「取り成しの祈り」こそが、最大の威力を発揮するのです。
だからこそ、悪魔は私たちに祈らせないように、様々な手段を用いて邪魔しようとします。
そういう時こそ、「み言葉の剣」を用いましょう。そしてイエス様が成されたように、み言葉によって敵を打ち砕くのです。
さて、本日のみ言葉に目を向けましょう。
イエス様は、ローマ兵の護衛のもとに、自らがかけられる十字架を担いで、悲しみの道を歩いて行かれました。
囚人が担ぐ十字架には、二つの説がありまして、一つはまさしく十字架であり、もう一つは、十字架の横の柱であると言う説です。
今まで描かれて来た映画においても、どちらかの説を採用して映像化されています。メル・ギブソン製作「パッション」では、十字架をそのまま担いで行きます。
真実であるとしたら、その重さは百キロ近くなるのではないでしょうか。なぜなら屈強な大人を釘付けするには、それなりに頑丈でなければ、折れてしまうからです。
イエス様が、どちらを担がれたのか、聖書からでは察することが出来ません。しかし私は、十字架そのものであると信じています。
なぜならイエス様は、弟子たちに「自分の十字架を背負って私について来なさい。」と言われたからです。囚人が担ぐ柱(杭)とは言っていないのです。
十字架は、あくまで十字架です。
私たちの教会のシンボルも十字架なのです。「+」であって、「-」ではありません。
さて、すでに体力の限界を超えたイエス様は、十字架を担ぎながら何度も倒れられます。そこへ、いなかから出て来たシモンというクレネ人が通りがかりました。
ローマ兵は、その与えられている権威を用い、シモンを呼び止め、そして彼に十字架を負わせて、イエス様のうしろから運ばせました。シモンはゴルゴタの丘にまで、イエス様の十字架を運ぶことになったのです。
何と光栄なことなのでしょう。これほどの栄誉をいただけるとは。もちろんイエス様は、彼の為にも身代わりとなって死んで下さるのです。
ローマ兵の護衛を受け、イエス様が先頭に歩かれ、その後ろに、つぶやきながら、内心怒りに燃えたシモンが、十字架を汗だくになって担いで行きます。
そしてその背後には、大ぜいの民衆やイエス様のことを嘆き悲しむ女たちの群れが、続くのです。
この群れの中に、ペテロもヨハネも、そして母マリヤもいたのです。
カトリック教会の『十字架の道行き』では、イエス様が母マリヤと顔を合わす場面が描かれています。
イエス様は自分を慕って、ついて来た女たちに話しかけられます。その続きは明日に。》