• 2019年9月22日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2019年9月22日第四主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書19章23節~27節】 (新約p.202上段左側)
    19:23 さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。
    19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らは私の着物を分け合い、私の下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
    19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
    19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。

    ◎メッセージの概要【くじびきと母マリヤ】
    《主イエス様の十字架の場面からの学びとなります。イエス様の着物をローマ兵が分けることは、3つの共観福音書に書き記されています。この預言は、ダビデの詩篇にあります。 ダビデは紀元前1010年から970年頃まで40年間統治したと伝えられています。よって、ダビデによる詩篇は、イエス様が十字架にかけられ、私たちの罪の身代わりとして死なれる1000年以上も前なのです。詩篇22篇の預言は、まさに「十字架刑」を表現しています。
    『私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。犬どもが私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。』
     さて、主イエス様の着物を分ける場面は、ヨハネが詳細にわたって書き記しています。
     イエス様はポンテオ・ピラトの命令によって、ローマ人の刑執行人によってむち打たれます。その時、もし服の上から、むち打たれとしたら、服はボロボロとなり、兵士たちは、そんな服を欲しないと思います。よって上半身裸のまま、服をめくられ、むち打たれたのです。そして十字架につけられる時には、いっさいの服を剥ぎ取られたに違いありません。
     それだからこそ、『イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分』することが出来たのです。この枚数から、ローマ兵は4人いたことが分かります。そして下着をくじ引きにします。どんなくじを作ったのかはわかりませんが、その中の一人の兵士が、イエス様の一枚の下着を自分のものにします。もしかしたら、彼は後ほど救われているかも知れません。映画「聖衣」は、その解釈の中に制作されました。
     さて、そうしますと、イエス様は、本当に何も身にまとわず、裸のままで十字架につけられ、裸のまま死んで行きます。よく映画に出て来るイエス様の最後とは異なるのです。  映画では、道徳上、腰巻きを着けています。カトリック教会のイエス像も、腰巻きのイエス様、あるいはそのままのイエス様と二通りあったようです。しかし現在では、腰巻きを着けたイエス様に統一されて来ました。それでは、なぜイエス様は、上着や下着をローマ兵に分けられ、またくじ引きにされたのでしょうか。
     それはパウロの解釈に答えがあります。
    『聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。』
     アダムは生まれた時、またエバも生まれた時には、二人は裸であったのです。
     創世記によりますと、
    『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』と書かれています。
     主イエス様は、アダムの罪すなわち原罪の為にも十字架にかかられたのです。
     さて次に主の母マリヤのことです。この記事は、ヨハネにしか書かれていません。なぜなら主の十字架のみ側にいた使徒は、ヨハネだけだからです。
     ここで主イエス様は、母マリヤを「女の方」と呼びます。これは女性に向けての最高の尊敬の言葉だと言われています。
     イエス様が、母マリヤを普段からこのように呼んだことは、ヨハネの福音書の「最初のしるし」として描かれています。
    『それからガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなった時、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたは私と何の関係があるのでしょう。女の方。私の時はまだ来ていません。」』
     この時にも「女の方」なのです。なぜイエス様は、母マリヤのことを「お母さん」とは呼ばないのでしょうか。実はその辺りに、後の時代における、ローマ・カトリック教会のマリヤ信仰への予見があるとは言えないでしょうか。
     聖書は、明確に「イエスの母マリヤ」と表現しています。となれば、イエス様はマリヤの子となるのです。そこから「神の母マリヤ」と言う解釈が成り立ちます。マリヤは、人間イエス様の母であることには間違いありません。しかし神の母ではありません。イエス様の御体の中に住んでおられた霊こそが、創造主なのです。なぜなら神は霊であるからです。
     さて、十字架刑の場面ですが、
     マタイは
    『その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。』 次にマルコは、
    『その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。』
     そしてヨハネは、
    『イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。』と書いています。ここから、イエス様の母の姉妹が、ゼベダイの子らの母であって名前がサロメであることが分かります。
     イエス様は、弟子ヨハネに母マリヤを託しますが、実は叔母サロメに頼んでいるのです。なぜなら、やがてヨハネはペテロと主の兄弟ヤコブと共に、初代教会において、重く用いられて行くからです。よって実際に主の母マリヤの面倒を見たのは、妹であったサロメであると思われます。》

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