◎本日の聖書箇所【使徒の働き13章13節~14節】(新約p.260上段)
13:13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。
13:14 二人はペルゲから進んで、ピシディアのアンティオキアにやって来た。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
◎メッセージ【帰ってしまったヨハネ・マルコ】
《パウロとバルナバはキプロスの首都パポスから船で、パンフィリアのペルゲに渡りました。そしてペルゲに着いた時に、バルナバのいとこであったヨハネ・マルコは、カイサリア行きの別の船に乗って、帰ってしまったのです。この時は、紀元49年頃だと伝えられています。 マルコのヘブル名はヨハネで、「主は恵み深い」という意味です。マルコの家はエルサレム市内にあり、大勢の人々が集まるのに十分な広さを持っていました。伝承によれば、この家は主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にされ、またペンテコステ以前、そして聖霊降臨日当日も弟子たちが集まっていた場所であります。マルコの家はかなり裕福でした。自分の家でイエスと弟子たちの集りがなされていたことから、マルコは主イエスやでとたちをよく知っていました。マルコを信仰に導いたのは、「私の子」と呼んでいる使徒ペテロであったと伝えられています。
また、マルコの福音書に『ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。』と書き記されていますが、この青年こそ、マルコ自身であると伝えられています。主イエスの十字架は、紀元30年頃であると考えられていますので、この時は10代の青年であったマルコも、紀元49年頃には、少なくとも33才以上であった事は間違いないことです。 ところで、なぜマルコは突然、船にて引き返し、エルサレムに帰ってしまったのでしょうか。その理由としては、サウロが一行のリーダーとなり、バルナバが軽んじられているように見え、それに憤慨した為であるとか、キプロスで宣教活動の困難を経験し、次の目的地がさらなる奥地で異邦人も多い地方であったゆえ、それまで以上の困難さを予想し、臆病になった為であると考えられています。しかし、本当にそうなのでしょうか。
ヨハネ・マルコは、公生涯における主イエス様を知っています。。ゲッセマネの逮捕場面も、十字架刑も見ています。私は、復活の主イエス様にもお会いしていると思っています。その後、彼は、自分の家で起こったペンテコステも知っています。そして、ステパノの殉教も、サウロによる教会の迫害も知っています。
マルコが帰ってしまった一番の理由は、やはりかつての迫害者サウロが、バルナバ以上に主に用いられていることへのねたみと怒り、いや、迫害者サウロを赦せない心にあったと考える方が一番妥当ではないでしょうか。
紀元50年に第一回教会会議がエルサレムにおいて開催されます。その時に、バルナバはマルコを再びアンティオキアに連れ帰るのです。しかし、パウロとバルナバの間にマルコの処遇によって、大きな反目が起こります。その年から第二回伝道旅行が始まりますが、パウロはシラスと、バルナバはマルコと、二つのチームに分かれることになります。
それから10年間のマルコの消息は詳しく分かっていません。テモテの手紙そしてピレモンの手紙がローマの獄中にて執筆された時、マルコはパウロと共にいます。それは紀元60年以降のことになります。しかも信頼される同労者にまでなっています。
マルコは、紀元50年代の中頃までに福音書を書き記したと伝えられています。バルナバとの伝道旅行を終えた後、シモン・ペテロと共に、通訳者として、様々な場所を巡り歩いたと考えられます。この10年間に、マルコは変えられたことは間違いないことです。そして、その証しとして、福音書を書き上げることが出来たのではないでしょうか。
アレキサンドリヤの教父クレメンス(紀元150年~215年)はこう言っています。
「ペテロがローマにおいて、おおやけにみ言葉を宣べ伝え、聖霊によって福音を語っていた時、そこに居合せた者の中の大勢の者が、マルコにペテロの言葉を書き記すように頼んだ。なぜならマルコは長年ペテロに従い、彼の語ったことを覚えていたからである。」と。》