◎本日の聖書箇所【ルカの福音書24章1節~11節】(新約聖書p.172上段右側)
24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
24:8 彼女たちはイエスの言葉を思い出した。
24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
◎メッセージ【主イエスの復活】
《今日はイースターです。主イエスは、弟子たちに、またガリラヤから行動を共にして来た女性たちにも、三度受難予告をされました。しかし、それだけではなく、三日目によみがえることも預言されたのです。この預言をユダヤ人の指導者たちも、耳にしていたわけです。
それゆえ、彼らは安息日にもかかわらず、律法を破ってまで、ピラトの所に行き、見張りをつけることを願い出ました。何と彼らの方が、主イエスの復活を信じていたのです。
さて、女たちが墓について見ると、すでにローマ兵の見張りは逃げた後であり、石のふたがわきに転がされていたのです。彼女たちは墓の中に入ります。主イエスのからだは見当たりません。彼女たちが途方に暮れていますと、そこに二人の御使いが現われます。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
マタイの福音書では、御使いは主イエスの伝言を伝えます。
『「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」』と。
彼女たちは、これらのことを使徒たちに伝えます。しかし使徒たちには、この話はたわごとのように思えたので、彼女たちを信じなかったのです。
さて、ヨハネは七つの特別な意味を持つ奇跡を福音書に書き記しました。その最後が「ラザロのよみがえり」です。この奇跡は、紛れもなく主イエスがよみがえられることの予兆でありひな形です。また主イエスは、パリサイ人や律法学者たちにこのようにも言いました。
『「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行なった者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行なった者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」と。』
主イエスの声を聞いて、ラザロはよみがえりました。そして、この言葉が真実であるならば、主イエスが声を発することになるはずです。声は、喉を通して発せられます。そして死人が主イエスの声を聞くことも真実です。ラザロはこのことの前触れであり、ひな形なのです。主イエスが生きておられなくて、どうして声を発することが出来ると言うのでしょう。
主イエスは十字架にかかられました。私たちの身代わりとして死んで下さる為にです。そして、私たちが受けるべき罪のさばきを一身に受けて下さいました。私たちが永遠の命を授かる為にです。そして三日目によみがえられたのです。
あれほど、主イエスが弟子たちに、予告し、またその証拠である「ラザロのよみがえり」の奇跡を見せても、彼らは女性たちの伝言を信じることが出来ませんでした。
彼らには、たわごとにしか思えなかったのです。しかし、たわごとではないのです。主イエスは本当によみがえられたのです。使徒パウロはこのように証しています。
『もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。』と。》