• 2024年10月27日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【ルカの福音書7章1節~10節】(新約聖書p.123下段右端)
    7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらの言葉をすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
    7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
    7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
    7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
    7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」
    7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
    7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、お言葉を下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
    7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
    7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、私はイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
    7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。

    ◎メッセージ【百人隊長のしもべのいやし】
    《この「百人隊長のしもべの癒し」の奇跡の話は、共観福音書の中では、ルカとマタイの二つに記載されています。この二つの平行記事を比べますと、二つの点で大きな違いがあることに気づきます。まず、時制が異なっています。そして、もう一つは、ルカでは、百人隊長は、使いとしてユダヤ人の長老たちを主イエスの御許に使わすことになっていますが、マタイでは、百人隊長自身が主の御元に来ることになっています。どちらが正しいのでしょうか。
    ルカの福音書が、一番時制が正確であると言われています。しかし、カペナウムの取税人の頭でもあったレビは、この百人隊長とは顔なじみであったことは間違いありません。よって、マタイにおける平行記事が正しいのです。
    また、このしもべですが、伝承によりますと、百人隊長が息子のように愛していた青年であったと言われています。
    そして、百人隊長は、カペナウムを護衛する責任者として、主イエスが成されたしるしや奇跡のことを耳にしていたはずですし、また彼自ら、主イエスの御許に来るのですから、主の御顔も知っていたに違いありません。彼は主に対して、非常にへりくだっていました。
    特に、「ただ、お言葉を下さい」と言う彼の言葉こそが、主イエスが絶賛することになった、彼の信仰なのです。
    信仰とは神様の言葉を信じることです。ヘブル人の手紙には、『信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)』と書かれています。
    百人隊長は、主イエスが神の子であることを、この時すでに信じていたと思われます。そして、この時点から約3年後のことです。過越の祭りが始まる前日の金曜日に、主イエスは、ゴルゴタの丘において、十字架に掛けられます。
    その十字架刑を執行したのが、ローマ軍の百人隊長と四人の部下の兵士でした。その百人隊長こそが、かつて、主イエスに自分の愛するしもべの青年をいやしてもらった、カペナウムに駐屯していたローマ軍の百人隊長本人であったと私は考えています。
    主イエスが、父なる神様に霊をお渡しになられた時、この百人隊長が告白した言葉こそ、その証拠とも言えるのです。「この方は本当に神の子であった。」と。そしてその時、彼は確信し、救われたと信じています。》

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