• 日々のみ言葉 2015年10月15日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月15日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章44節】

    6:44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

    ◎ショートメッセージ

    《『人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。 (マルコの福音書6:42~6:43)』

     マタイは、平行記事として、こう書き記している。

    『食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。 (マタイの福音書14:21)』

     ここに、マタイははっきりと書いている。つまり女と子どもがいたことをである。

     今日で、「五千人の給食」についての学びを終えることになるが、まずこの場面をもう一度、おさらいして見たいと思う。

     主イエスは、弟子たちに、彼らで、この群衆に何か食べる物を用意せよ、と言われた。もちろん弟子たちも、その時には何も食べる物を持ち合わせていなかった。もし、十二使徒の誰かが、あるいは新たに加えられた60数名の弟子の中の一人が、少年のように、お弁当を持っていたとしたら、もう少し状況は変わっていただろう。

     主イエスは、弟子たちに、パンはどれくらいあるか、行って見て来なさい、と言われた。そして弟子たちは確かめに行ったのだ。
     まず一番の疑問は、本当に群衆の誰もが、何も食べる物を持ち合わせていなかったのか、と言うことである。おそらく弟子たちは、一人一人に「何か、食べる物を持っているか」とか。「誰かパンを持っていないか。」と聞き回ったはずである。

     人間とは、このような時に、欲が出るものであり、たとえ持っていたとしても、そのように聞かれた時には、思わず首や手を横に振ってしまうものなのである。

     しかし一人の少年は違っていた。彼は、母親が作ってくれた、当時では一般的な弁当である、「五つのパンと二匹の魚」を、主イエスに差し出したのである。この時に、神が用いられたアンデレのことも忘れてはならないのであるが。

     神は、すべてをご存知であられる。

     神は、最初から、この少年を選ばれていたのである。この少年が、なぜこの時点において、まだ弁当を持っていたのか、そのことについては聖書は触れてはいないが。このことも、決して偶然ではなく、必然に起こったこと、すなわち神の不思議な摂理の中に、進められたのであった。

     私たちも、この少年のように、主イエスの呼びかけに、ただちに従い行動する者でありたい、と思う。

     さて、主イエスは、群衆を、五十人、百人の組に分けて座らせた。しかし主イエスと、弟子たちは立っていたと思われる。
     それは、すべての人々に、主イエスがパンを割き、魚を割く場面を見せる為でもある。

     弟子たちも、そして群衆も、主イエスに目が釘付けとされたはずである。弟子たちも、そして群衆の数名は、「五つのパンと二匹の魚」しかないことを知っていたはずである。

     主は、天を見上げて感謝を捧げられた。そしてパンを、魚を割いたのである。少年の弁当箱、いや弁当袋から、次々にパンを取り出し、次には、魚を取り出し、割いて十二使徒の持っているかごに入れたのである。
     ここに神の大いなる摂理を、私は思う。少年の弁当箱から、次々にパンや魚を、主イエスが取り出すのを見て、弟子たちも、そして群衆も、まるで魔術のようにも見えたことであったに違いない。

     しかしこれは魔術ではない。悪魔や悪霊のわざではない。子なる神であられる主イエスの奇蹟なのである。神の御わざなのである。神は、無から有を創り出せるお方なのである。悪魔や悪霊も、かつては天使であり御使いであった時に持っていた力、正確に言えば、神が与えられた力によって、今でもある程度は、不思議なわざをすることが出来るが、無から有を創り出すことは出来ない。
     要するに、悪魔や悪霊は何も生み出せないのである。彼らは、破壊することしか出来ない。またいつも破壊することを考えているのである。

     この奇蹟を、目の当たりに見た十二使徒たちと新たな弟子たち、そして男五千人の人々は、まさしく主イエスが、単なる人ではなく、「メシヤ」として写ったはずである。

     群衆は、特にその中心となった男五千人は、主イエスを、政治的指導者として、ローマ帝国から助け出してくれる軍事的メシヤとして、担ぎ出そうと考えて始めていた。

     そればかりではない。十二使徒の一人であったイスカリオテのユダも、主イエスをそのような目で見ていたはずである。

    「五千人の給食」の奇蹟。この奇蹟にあずかったのは、女と子どもを除いて、男が五千人、もし女と子どもを入れたとしたら、約二万人の人々が、体験出来た奇蹟。

     しかし主イエスが十字架につけられた時には、全く正反対の態度を見せた群衆。
    「群衆」はやはり「群衆」なのだ。人は流されるのである。

     しかし私たちは違う。主イエスと私、私と主イエス、そう私たちは、天地創造なされた神と、個人的に交わることの出来る存在なのである。

     主イエスは、いつも私の為に、家族の為に「給食」を用意されてくださるのだ。》

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