◇◆◇日々のみ言葉
2015年10月16日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章45節~46節】
6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
◎ショートメッセージ
《「五千人の給食」の奇蹟が行なわれた。人々は満腹した。
本来ならば、いつもは弟子たちが群衆を解散させていた。ところが、今回は何と主イエスが、群衆を解散させておられるのである。
なぜだろうか。
解散させる仕事をするべき弟子たちを、強いて舟に乗り込ませて、向こう岸のベツサイダへと送られたのである。当然、そこに残るのは、主イエスお一人だけとなる。
ヨハネは、平行記事として、こう書き記している。
『人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネの福音書6:14~6:15)』
このことと、関係があるのだ。群衆は、主イエスを、政治的メシヤとして、ローマ帝国の支配からユダヤを解放してくれる指導者として、担ぎ上げようとしていたのである。
この時、実は群衆だけではなく、十二使徒たちでさえ、主イエスにそのような期待を抱いていたのである。主イエスは、弟子たちを、その流れに、その騒動に巻き込まれることを案じて、あえて先に舟に乗せ、ベツサイダに行かせたのだ。
ヨハネは、ベツサイダではなくカペナウムであったと、書き直している。
では、主イエスはどのようにして群衆を解散させたのであろうか。人々を集めることは至難のわざであることは、今でも変わらない。そして集まった人々を解散させることも、至難のわざであることは、もちろんのことである。今なら、マイクを持って、スピーカーから大きな音を出して、群衆を誘導することは容易いことであろう。
しかし、この時代には、そんなものが存在するはずもない。あるのは、自分の肉声だけである。どんなに大声を出したとしても、男と女と子どもをあわせて二万人の群衆の彼ら全員に、その声が届くことは、どう考えて見ても不可能なことである。
二つ考えられる。
一つは、霊肉共に、十分満たされていた群衆は、主イエスの「解散」の声に、不平不満を言わず、従ったこと。人間、満足している時こそ、寛容となれる。
もう一つは、故郷ナザレの会堂にてメッセージをされた、その時に、主イエスが見せた不思議な御わざである。
『それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」
イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。
イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」
また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。(ルカの福音書4:16~4:30)』
ともかく、主イエスは、お一人で祈るために、山に向かわれたのである。大きな御わざを行なわれたあと、主イエスは、よく一人で祈るために、また静まるために、寂しい所へ退かれたようである。
この事から、学ぶことがある。
私たちにも静まる時が必要である、と言うことだ。
私たちは生身の体を持っている。この体は、働くと、やはり疲れを覚えるのである。しかし私たちの、本当の存在は、「霊」なる人である。この「霊」なる人も、疲れを覚えるのだ。
体の疲れは、眠ればいやされるが、霊の疲れは、寝ただけではいやされないのだ。その疲れをいやしてくれるのは、神との交わりである。聖霊なるお方との親しき交わりである。み言葉である聖書を思い巡らせることである。
一日、たとえ一分であったとしても、主イエスのように、一人静かに、静まる時を持ちたいものである。》