• 日々のみ言葉 2015年10月17日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月17日(土)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章47節~48節】

    6:47 夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
    6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

    ◎ショートメッセージ

    《『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。 (マルコの福音書6:45~6:46)』

     五千人の給食の奇蹟の時に、主イエスは、一人でパンを割かれ、一人で魚を割かれた。一体、何万回、腕を上下にされ、割かれたのであろうか。いくら主イエスが、鍛え上げられた大工であったとしても、やはり肉体は悲鳴を上げたに違いない。そればかりではない。霊的疲れをも、覚えられたはずである。

     それゆえ、主は一人静まる時を、いつも持たれたのだ。その時、父なる神との交わり、また聖霊なる神との交わりをなさっておられたはずである。その交わりを通して、肉体的疲れも、霊的疲れもいやされたと、私は思う。

     主イエスは、まことの神であられながら、人となられた。天地創造された創造主なるお方が、ご自身の造られた人間となるまでに、へりくだられたのである。主イエスは、人間になったゆえに、本来持っておられる神としての力を、制限されたと考えられる。
     それゆえ、故郷ナザレの人々も、また主イエスの家族も、主イエスが、本当に、単なる人間としか見えなかったのである。それだからこそ信じることが出来なかったのだ。
     それほどまでに、完璧な人であった事を意味していると言える。

     さて、主イエスが、祈っておられる時に、父なる神、聖霊なる神との交わりを通して、弟子たちが、湖の真ん中で、風に邪魔されていて漕ぎあぐねていることを、知られた。

     そして、山の上からご覧になられ、舟がガリラヤ湖の真ん中ほどにおいて、風に翻弄されていることを確認された。

     山から降られると、何と主イエスは、湖の上を歩き始めたのである。

     これは、どういうことであろうか。先ほどにも書いたように、主イエスは、人間として、ご自身の持っておられる本来の神の力を、制限されていたはずである。なのに、水の上を歩いておられるのだ。

     私たちは、何の機材をも使わずに、水の上を歩くことは、絶対に出来ない。この時の出来事を、どのように解釈すれば良いのだろうか。

     この時、主イエスは、ご自身がどのような者であるかを、あえて十二使徒たちに、そして弟子たちに示されたのではないだろうか。
    「水の上を歩く」これは、超自然的なことである。奇蹟とは、反自然ではなく、超自然なのである。

     マタイは、同じ平行記事において、この時に、何とシモン・ペテロが、水の上を歩いたことを書き記している。その事については、また別な機会の学びとしたい。

     舟に近づかれた主イエスは、何と通り過ぎようとされたのである。これはどういうことか。なぜ主イエスは、あえて弟子たちの舟から離れようとされたのか。

     この事について、尾山令仁師は、このような見解を出している。

    『すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
    主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
     また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
     また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
     わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
    わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(出エジプト記33:18~33:23) 』

    『そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。
     彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。
     エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
     主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。(第Ⅰ列王記19:8~19:11) 』

     モーセも、エリヤも、神に選ばれた大預言者であった。その彼らでさえ、神の姿を見ることが出来なかったのである。モーセの横を、そしてエリヤの側を、通り過ぎられたのだ。この事が、関係していると、尾山令仁師は言われるのである。

     弟子たちは、この話も良く知っている。つまり主イエスは、あえて通り過ぎることによって、ご自身が神であられることを弟子たちに示そうとなされたのである。

     その時、弟子たちの取った行動は?》

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