• 日々のみ言葉 2015年10月18日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月18日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章49節~50節】

    6:49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
    6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と言われた。

    ◎ショートメッセージ

    《『それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
     しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
     すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と言われた。(マタイの福音書14:22~14:27)』

     夜中の三時頃まで。この時制は、ユダヤ暦ではなく、現在時制であるローマ暦である。よって、今と同じく、真夜中の三時頃を指す。ほぼ夜中じゅう弟子たちは、向かい風と波に悩まさせられており、苦労していたのである。
     十二使徒の中には、プロの漁師が4人も乗っていた。その彼らであっても、簡単にはいかない天候状況であった。
     もちろん、この事も、私は、すべて神の御手の中での出来事であると思っている。

     そこへ、何と主イエスが歩いて来られるである。

     もちろん弟子たちの誰もが、まさか主イエスが湖を歩いて来ようとは、思わなかったに違いない。今の私たちであったとしても、誰も思わないであろう。

     弟子たちが、「あれは幽霊だ。」と、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げたことは、無理もないことである。

     すると、主イエスは、「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」と言われた。
    この時、主イエスは、弟子たちの乗っている舟から、おそらく数十メートルは離れていたと思われる。
     そうでなければ、シモン・ペテロが、「主よ。もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」とは、言わないはずである。

     今日の一番大切な学びは、主イエスが言われた3つの言葉である。

    「しっかりしなさい。」

     この言葉には、神がヨシュアに語った「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じ意味が込められている。それほどまでに、弟子たちは、まるで蛇に睨まれたカエルのように、おびえすくんだのである。また、この言葉には「あなたの信仰はどこにあるのか。」と言う意味をも含んでいる。

    「私だ。」

     70人訳聖書は、ギリシャ語で「エゴー・エイミ・ホ・オーン」と、この言葉を訳している。もちろん、この時に、主イエスは、ギリシャ語を話せたとしても、弟子たちには、ギリシャ語ではなく、アラム語かヘブル語で話されたに違いない。その内容は、モーセが、神にお会いし、神の名を尋ねた時、その答えが「エゴー・エイミ」であった。
     つまり、「私は有って有る者」、そう創造主であることを意味しているのだ。主イエスこそ、創造主なるお方であられる。そのことを、弟子たちに教えられたのである。

     そして3つ目の言葉は、

    「恐れるなことはない。」

     なぜ人間は、私たちは恐れるのだろうか。それは、その時に起こっている状況の意味が分からないからである。もし意味が分かっていたとしたら、その結末が分かっていたとしたら、恐れることはないはずだ。

     聖書には、365回、この「恐れるな」という言葉が使われている。人間は恐れるのである。人間は、どうしても今、目先で起こっている出来事や状況に左右されてしまうのである。「神の視点」で物事を見ることが出来ないのだ。
     神は、時間や空間には支配されていないお方である。たとえ過去であっても、現在であっても、また未来であったとしても、神の目の前では、全てが現在進行形なのだ。神だけが、未来のすべてを知っておられる。

     私たちは、そのお方を「主」と呼んでいる。この主イエスに信頼する者こそ、勝利者なのである。
     確かに、悪魔や悪霊どもは、私たちの命と信仰を奪おうとして、躍起になっている。しかし、どんなものであっても、私たちから主イエスの信仰を奪い取れる者はいない。

     まさしく、使徒パウロが言うようにである。

    『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8:38~8:39)』

    「しっかりしなさい。私だ。恐れることはない。」

     『私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10:39)』》

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