• 日々のみ言葉 2015年10月20日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月20日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章52節】

    6:52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

    ◎ショートメッセージ

    《十二使徒たちは、主イエスの大きな御わざをたくさん見た。病人のいやし、当時においては大問題であった、もちろん今もそうであるが、悪霊問題の解決(悪霊の追い出し)、ヤイロの娘のよみがえり、つまり死人の生き返り、そして先ほど体験した「五千人の給食」。
     それにも関わらず、マルコは、「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」と書き記したのであった。

     これは、どういうことか。また、なぜ彼らは、ひどく驚いたのだろうか。

     あの二万人以上の人々に、パンを食べさせることが出来る偉大なお方であることが、彼らは、まだ良く分からなかった、と言うことだろうか。その程度の意味であろうか。

     あのパンの奇蹟の出来事が、何を意味するのか、弟子たちには、まだ良く理解できなかったからこそ、驚いたのだ、と尾山令仁師は言われる。
     実は、マタイもマルコも、そしてルカも、その本当の意味について福音書には書き記さなかったのだ。それゆえ、使徒ヨハネが、晩年になってから、第四福音書の執筆を余儀なくされることになる。

     四つの福音書において、「五千人の給食」の奇蹟だけが、すべての福音書に掲載されていることは、前にも学んだ通りである。

     ヨハネは、その後に、「パン」の意味を、掲載した。

     『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
     そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
     イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
     しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
     そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
     わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
     事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
     ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」
     イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
     預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
     まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
     わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
    しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
     わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
     すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
     イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
     生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」 (ヨハネの福音書6:32~6:58)』

     この事からも分かるように、主イエスこそが、「いのちのパン」なのである。主がここで言われていることは、やがて主イエスが制定される「聖餐式」のことを意味しているのだ。
     それは、十字架の贖いの死を指しているのである。主イエスの十字架を受け入れる者には、まさしく「永遠のいのち」が与えられる。

     そのことを、「五千人の給食」の後、主イエスが、湖を歩いて来られ、舟に乗られた時には、まだ弟子たちの心は閉じていて、主イエスの十字架の贖いの死を、受け入れる時ではなかったことを、マルコは、過去を振り返って言っているのである。

     なぜなら、福音書が書かれたのは、すでに主イエスが十字架に架かられ、死なれ、三日目によみがえられ、そして四十日後に昇天されてから、もう三十数年が経ってからのことだからである。》

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