◇◆◇日々のみ言葉
2015年10月21日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書6章53節~54節】
6:53 彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
6:54 そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、
◎ショートメッセージ
《主イエスを乗せた舟は、無事にベツサイダに着いた。
ベツサイダとは、「漁師の家」という意味のアラム語を音訳した地名である。主イエスの最初の弟子となった漁師アンデレ、ペテロ、ピリポの故郷であるガリラヤの町を指す。しかしペテロの家は、この時にはカペナウムにあった。五千人の給食が行われた場所にも近かった。ヨルダン川がガリラヤ湖(ゲネサレ湖)に流れ込む河口の東岸を北に1.5キロほど入った地点に現在エッ・テルと呼ばれる古跡があり、一般にこれがベツサイダと認識されている。
本来ならば、「五千人の給食」が行なわれた場所からは、舟で2時間ほどの距離であったにも関わらず、弟子たちはベツサイダに辿り着くまで、ほぼ夜中じゅうかかってしまったことになる。主イエスが途中から合流してくださり、何と主イエスが舟に乗り込まれた時に風が止んだのである。そのあとは、快適な船旅であったに違いない。おそらく6時間以上、向かい風と波に悩まされていた彼らは、風が止んだ時から、多くの弟子が、安堵し寝込んでしまったに違いない。
ここに今日の大切な学びがある。
それは、最初に湖に舟を出した時には、その舟には弟子たちしか乗船していなかった。なぜなら、主イエスが、弟子たちに、強いて舟に乗るように命じられ、ご自身は、一人祈る為に山に登られたのである。
その間、舟は弟子たちだけで、向こう岸ベツサイダに向かったことになる。その舟には、主イエスは乗っておられなかった。その舟には主イエスはおられなかった。
もし、主イエスが共におられなかったとしたら、私たちクリスチャンは、果たして目的地に向かうことが出来るだろうか。この世の強い風当たりや、何度も押し寄せる試練の波に、立ち向かうことが出来るだろうか。
出来るはずはない。
主イエスが共におられないと言うことは、以前と同じ状態、そう救われる前に、自分だけの力で、我力でただ頑張るしかなかった、疲れ果ててしまっていた、あの時の自分と何も変わらないのだ。
しかし主イエスは、弟子たちを放っておくことは、されなかった。彼らの危機的状況を察しされ、何と湖を歩いて、弟子たちの乗る舟に駆けつけてくださったのである。そしてその舟に、主イエスが乗られた時に、風と波が収まった。
主イエスが、共にいてくだされば、主イエスが、私たち一人一人の「人生号」の舟に乗っていてくだされば、必ず嵐は止み、大波も凪になるのである。
こうして、舟は目的地に着くこととなる。私たちの目的地。そう御国へ。
主イエスは言われた。
『「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14:27)』
私たちには、この平安が与えられている。これは主イエスの永遠の約束でもある。
『「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20後半)』
朝がやって来た。舟は目的地に着いた。すると、朝早くから湖の岸辺に来ていた人々は、主イエスと気づいたのである。主イエスは、困っていた人々、主イエスを待ち望む人々の所へ、再び来てくださったのだ。》