• 日々のみ言葉 2015年10月22日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月22日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書6章53節~56節】

    6:53 彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
    6:54 そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、
    6:55 そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。
    6:56 イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。

    ◎ショートメッセージ

    《「五千人の給食」の奇蹟の後、主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の向こう岸へと渡った。この時、主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せ、彼らだけを先にベツサイダに向かわせたのだ。
     主イエスは、群衆を解散させると、祈るために一人で山に登られた。時刻は、もうすでに新しい日が始まっており、午後9時を過ぎていたと思われる。
     主イエスが、ガリラヤ湖の真ん中で、弟子たちが向かい風と波に翻弄され、漕ぎあぐねているのに気づかれたのは、すでに夜中の三時頃であった、とマルコは書き記している。
     とすれば、主イエスは、休まず、まさに徹夜で祈りを捧げていたことになる。また弟子たちも、「五千人の給食」の奉仕の疲れから、休むことなく、何と6時間以上も、ガリラヤ湖上で、何とか舟を目的地に着かそうとして、格闘していたことが分かる。
     とすれば、弟子たちも、まさに徹夜である。

     その時、主イエスが、湖を上を歩いて来られ、舟に乗り移り、やがて舟が目的地に着く、と言う場面が、本日の聖書箇所である。

     まず、この時の時刻は、何時頃であろうか。間違いなく朝になっていた。ベツサイダに着く頃には、明るくなり始めていたと思われる。それゆえ、主イエスと弟子たちが、。舟から上がると、人々が主イエスの一行であることに気づいたのである。

     マルコは、坦々と、その出来事を、福音書に書き記しているが、私たちは、節と節の間にある、時刻の経過を、本当に生きて働かれた主イエスと、主イエスに従った弟子たちの軌跡を、たどる必要があると言える。

     主イエスも、弟子たちも、休んではいないのである。ヨハネは、その平行記事として、主イエスが弟子たちを向かわせた場所は、ベツサイダではなくカペナウムの方へと書き記している。
     なぜならカペナウムには、主イエスがガリラヤ宣教の拠点としたシモン・ペテロの家があるからである。そこで主イエスは、ご自身も、また十二使徒たちも休ませることを考えられたとしても不思議ではない。
     もし、そうだとすれば、その後にマルコが書き記していることが、十分につじつまが合うこととなる。なぜなら、カペナウムの町の人々は、何時主イエスの一行が、シモン・ペテロの家に戻って来られるのかを、今か今かと待ち望んでいたからである。

     それゆえ、主イエスを乗せた舟が、カペナウムの船着き場に到着した時、人々はすぐに主イエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来たのである。

     そして、主イエスによる、いやしのミニストリーが始まったのだ。人々が、押し寄せてくる僅かな時間の間に、主イエスと弟子たちは、シモンの家に入り、しばしの休息を取られたと、私は思う。生身の人間なら、喉も渇き、空腹であったはずである。

     そして、そこからまた町や村や部落において、多くの病人たちを主イエスはいやされたのだ。また人々は、せめてイエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願ったとある。そして、さわった人々はみな、いやされた。

     もし日本にリバイバルが訪れたとしたら、この時の主イエスのように、また主イエスにつき従う十二使徒たちのように、ほぼ自分たちの時間が、つまり食事を取ったり、体を休めたり、睡眠を取ったりする時間が、取れなくなってしまう可能性が高い。
     それほどに大勢の人々が、教会に駆けつけることになるからである。私たちは、日本にリバイバルが起こってほしいと、真剣に祈り求めて来た。リバイバルは、私たち人間が起こすものではなく、聖霊なるお方が起こされるものである。その主権は神の側にある。しかし、その時、神は、ご自分が選ばれた人を用いられることも事実である。もちろん教会をも用いてくださると、私は信じる。

     2015年も、あと二ヵ月と十日で終わろうとしている。二十一世紀になって日本に大きなリバイバルが訪れると言われてから、もう15年が過ぎようとしている。未だに、まだ私たちは、今回のような光景を見てはいない。しかし、リバイバルは必ず来る。主の哀れみの恵みによって、必ず多くの人々が、病気をいやしてもらう為に、真の神の力に満ちた教会に、押し寄せる時がやって来る。その準備を、怠ってはならない。あきらめてはならない。神の時は、まさしく「時にかなって美しい」からである。》

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