• 日々のみ言葉 2015年10月24日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月24日(土)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書7章2節および7章5節】

    7:2 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、
    7:5 パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」

    ◎ショートメッセージ

    《『さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。(マルコの福音書7:1)』

     「エルサレムから来ていて」とは、どういうことか。
     エルサレムには、ユダヤの宗教的かつ政治的に、最高議決機関が存在していた。「サンヘドリン」である。新約聖書では、「議会」もしくは「最高議会」と訳されている。
    ミシュナ、トセフタなどのラビ文献によると、サンヘドリンはエルサレムにおける71人の議員よりなる「大サンヘドリン」と、最低7人、最高23人の議員よりなる地方都市における「小サンヘドリン」の2種類があった。
     当然、ここでは、「大サンヘドリン」を指している。アリマタヤのヨセフも、ニコデモも、この議員であり、70人の中の一人であったのだ。71人とは、議長の大祭司を含めた数である。
     ここから遣わされた来た者たちであるから、その中には、おそらく議員であった者も存在していたと思われる。
     それほど、主イエスの評判は広まっており、ユダヤの最高議会も、もう無視できない脅威になっていた。
     マルコは、7章2節と5節の間に、パリサイ人や律法学者たちが、どのような人々であるのか、簡単な説明を挿入している。
     よって、今日は、その挿入された説明文を省いて、考えて見たい。また挿入された説明文に関しては、明日学ぶことにする。

     さて、パリサイ人や律法学者たちは、少しでも自分たちの定めた掟に抵触すれば、それを問題とし、主イエスを言及する魂胆であった。
     すると、すぐに、主イエスの弟子たちが、手を洗わないでパンを食べていることに注目したのである。

     ユダヤ人は当時、食事をする前には、必ず手を水で洗い、汚れを清めてからパンを食べることになっていた。これは、とても良い風習であり、習慣でもある。今では、当たり前のことであるが、その背景は異なる。

     では、これはどこから来ているのだろうか。それは、「レビ記」からである。

    『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンと彼とともにいるその子らを連れ、装束、そそぎの油、罪のためのいけにえの雄牛、二頭の雄羊、種を入れないパンのかごを持って来、また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。」
     そこで、モーセは主が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入口の所に集まった。それで、モーセは会衆に言った。「これは主が、するように命じられたことである。」それから、モーセはアロンとその子らを近づかせ、水で彼らを洗った。(レビ記8:1~8:6)』

     ここから、パリサイ人や律法学者たちは、水で手を洗い清めるということを定めたのだ。それで、主イエスに質問したのである。

    「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのか。」

     ここで彼ら言っていることに注目してほしい。彼らは「聖書」とは言ってはいない。「モーセ五書」とも言ってはいない。彼らは、「昔の人たちの言い伝え」と言っている。と言うことは、昔の人が決めたこととなる。これを「口伝律法」と言う。
     神が定められたものではなく、昔の人の言い伝えに従え、と言うわけだ。

     また、このことは、衛生上の理由から出ていることではなく、宗教上の理由から出ていることであった。つまり宗教的汚れを取り除く為に、手を洗うということである。

     宗教には形は必要である。形式は重要である。問題は、中身よりも、形の方が、先走ってしまっていることにある。手を洗ってパンを食べてさえすれば、自分は罪を犯さず律法を守っている、ということを誇示したいがためである。

     私たちも気をつけなくてはならない。いかに自分が宗教的であるかのごとく、教会の中において、あるいはクリスチャンの仲間の間において、誇らしげに話したい誘惑に陥りやすい存在であるのか。

     かつて、私たち夫婦が最初に訪れた教会では、日曜日に礼拝だけでなく、夕拝をも守ること、そして水曜聖書研究会・祈祷会に出席することが、ほぼ義務づけられていた。 すべての集会に出席することが、まさしくクリスチャンのバロメーターでもあったのだ。その教会に籍をおいていた時は、安息日が安息日ではなく、日曜日ほぼ丸一日、教会にいて、次の日の月曜日から土曜日まで、目一杯仕事のある身に取っては、まさに天国ならず地獄のような月曜日が待っていたのである。

     礼拝は、父なる神様を、主イエス様を、そして三位一体であられる聖霊なる神様を心から礼拝するものである。それは、むしろ聖霊様との交わりである。もっとはっきり言えば、一番大切なお方は聖霊様である。私たちに取って、最も大切なお方は聖霊様である。
     聖霊様は、いつも主イエス様に栄光を帰される。主イエス様を示される。そして子なる神が高められれば、父なる神があがめられるのである。

     恩師、岸義紘師は、こう教えられる。
    「365日、毎日が安息日であり、毎日が礼拝です。」と。

     もちろん、日曜日には教会に行くことがベストであることは、言うまでもない。そして礼拝は、一度出席すれば、それで十分である。一番大切なことは、中身である。出席することが礼拝ではない。心から神を礼拝することが礼拝なのである。》

Comments are closed.