• 日々のみ言葉 2015年10月25日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年10月25日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書7章3節~4節】

    7:3 ――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
    7:4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――

    ◎ショートメッセージ

    《マタイの福音書は、ユダヤ人の為に書かれた。それゆえ、最初に「系図」が出て来るのであるが。そして、マルコによる福音書は、異邦人のために書かれたものである。
     それゆえ、マルコは、7章2節と5節の間に、ユダヤ人がなぜ食事の前に手を洗うのかについて説明分を加えたのである。

     「しきたり」「しきたり」

     この言葉は、「屋根の上のバイオリン弾き」の、主人公が歌う歌のタイトルである。それほど、ユダヤ人は「しきたり」、つまり「昔の人たちの言い伝え」を守っていたのである。
     もともとは、旧約聖書の「モーセ五書」に書かれている神の命令を、ユダヤ教のラビたちが、現実生活に適用しようとして、真摯な努力から出た解釈であり、詳しく「ミシュナー」に書き記されている。
     しかし、信仰倫理としてよりも、むしろ個々の外面的な規定として重んじられるようになり、新約時代にはその「口伝律法」が、旧約聖書に書かれてある成文律法の意図を逸脱するほどに尊ばれていた。まさに本末転倒である。

     たとえば、十戒の中に、第五戒として「安息日には仕事をしてはならない」という命令文が出てくるが、ラビたちは、ここから「仕事」とは何か、ということを真剣に考え、その結果、全くとんでもない条例を創り出したのである。
     主イエスにとって、「安息日論争」は、パリサイ人と律法学者との間において、大きな戦いであった。

     主は言われた。

    『「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコの福音書2:27~2:28)』

     今でも、ユダヤ人は、この「口伝律法」を忠実に守っていると聞く。たとえば、安息日には、料理を作ってならない、よって前日に用意しておく。もし用意できなければ、レストランに行くのである。

     また、安息日用のエレベーターがあると言う。その日は、各駅停車ならず各階止りとなる。つまりボタンを押すことが、仕事となると言うわけだ。
     多くのユダヤ人の人々は、メシアニックジューの人々を除いて、「ユダヤ教」すなわち「旧約聖書」の時代に、今でも生きている。彼らは、「メシヤ」が来ることを、今でも待ち望んでいる。今から二千年ほど前に、主イエスが来てくださったにも関わらず。

     今、現在は、パウロが言う「異邦人の時」なのである。救われる異邦人の数が満る時、救いはユダヤ人におよぶこととなる。ユダヤ人が神の選民であることは、永遠に変わることのない真実である。主イエスは、ユダヤ人して来られ、「ユダヤ人の王」として十字架に架かられたことを、私たちは忘れてはならない。

     さて、手を良く洗って食事をすること、また市場から帰った来た後は、身を清めてから食事をすること、それは衛生的観点からではなく、宗教上の理由から来ているのだ。
     つまり、汚れた物に触れたと言う理由で、手を洗い、体を洗って身を清めるのだ。
     彼らに取って、「異邦人」は、まさしく「汚れた存在」なのである。

     口伝律法は、「~してはならない」という項目がほとんどである。つまり、それをしなければ、律法を守っていることになると言うわけだ。

     主イエスが、「メシヤ」として「キリスト」として、ご自身を現わされた時、パリサイ人や律法学者たちのほとんどの者が、主イエスを否定した。
     最も宗教的と言われた人々が、旧約聖書に通じている学者たちが、なぜ信じることが出来なかったのか、本当に不思議である。

     しかし、アリマタヤのヨセフとニコデモは、隠れた主イエスの弟子であった。主イエスの埋葬の時に、自分たちの信仰を、おおやけに表明することとなる。この先、彼らは、サンヘドリン(ユダヤ最高議会)から、ユダヤ社会からも追放されることとなる。》

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