2015年10月26日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書7章6節~8節】
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7:7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
7:8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
◎ショートメッセージ
《『パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」 (マルコの福音書7:5)』
パリサイ人や律法学者たちの質問に対しての主イエスの応答である。この時の主イエスの口調はいかほどであったのか。ただ文面だけでは、それを計り知ることは出来ない。しかし、その答えの中に、その言葉の端々には、深い悲しみと共に、聖なる怒りがあったのではないだろうか。
ここで、主イエスが引用されているイザヤ書は、29章からの引用である。神の御子であられる主イエスは、旧約聖書に精通していたことは、一目瞭然のことである。
『そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(イザヤ書29:13)』
聖書は神の言葉である。その一言一句もすべて信じるに値する書物である。パリサイ人と律法学者は、聖書に通じていた。この時代における聖書とは、「旧約聖書」を指し示す。イザヤ書は、主イエスの時代から、七百年以上も前に書かれたものである。その時、すでに主イエスの時代に起こることが預言されていたことは、本当に驚きと共に、聖書が間違いなく、生きた書物であることを証明していると言える。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。』
ユダヤ人は、アブラハム・イサク・ヤコブの神を信じている。そのお方は、「有って有るもの」というお方であり、唯一の神、創造主なる神である。「ヤーヴェ」とも呼ばれるお方である。本来ならば、神に、そして聖書に従って、生きて行くことが求められているにも関わらず、「昔の人の言い伝え」すなわち「口伝律法」に従って生きているのである。
それゆえ主イエスは、「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」と言われたのだ。
パリサイ人と律法学者の信仰は、ただ形式だけを重んじるものであり、そこには、創造主なる神に対する畏れや、信仰の伴わないものであった。
今でも、同じような信仰がないとは言えない。いやむしろ多いとも言える。なぜなら多くのクリスチャンは、頭の信仰、知識だけの信仰に留まっているかも知れないのだ。
かつて私もそうだった。日曜日に教会に行く時には、聖書を持って行くが、教会から帰って来ると、その聖書を本棚に戻す者であったのだ。別名「サンデー・クリスチャン」日曜日は、クリスチャンではあるが、残りの平日は、この世の人々と全く変わらない生活をしていたのだから。これでは、地の塩、世の光にはなりえるはずもない。
主イエスを信じたのなら、せっかくクリスチャンになったのなら、神が私たちに本来用意してくださっているものを、全ていただきたい。また体験したいとは思わないだろうか。
その為には、いつでも、どこでも、どんな時であっても主イエスと共に、そして私たちに約束された、慰め主、助け主であられる聖霊様と共に歩むことことが、約束のものを手に入れる唯一の方法なのである。》