◇◆◇日々のみ言葉
2015年11月2日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書7章20節~23節】
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
◎ショートメッセージ
《『イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。(マルコの福音書7:14~7:17)』
最初に、「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。」と言うたとえに関して、弟子たちに解き明かしをされた。
この時、主イエスは、すべての食物をきよいとされた。これが当時のユダヤ人において、どれほど画期的なことであったのかを、昨日は学んだ。
しかし、今でも多くのユダヤ人の人々は、旧約聖書の時代に生き続けている。彼らは、宗教的に「聖くない物」を決して口にしようとはしない。
メシアニック・ジュー(主イエスをメシアとして信じるユダヤ人)となったとしても、ユダヤ人の風習と文化の中に、それまで生きて来たのであるから、そう簡単に「豚肉」を食べることは、なかなか出来ないことだ、とも聞いている。
とすれば、シモン・ペテロが今から二千年ほど前に、コルネリオの家に招かれ、異邦人の救いと彼らが聖霊様に満たされることを体験し、その後、それまでは決してしなかったであろう異邦人との一緒の食事、しかも豚肉を食べたことは、いかに勇気があり、またパイオニア的な存在であったことを、私は思い知らされる。
さて、次に主イエスは、
「人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」と言われたことについて、弟子たちに解き明かしをなされた。
「人から出て来るもの」とは何か。
それは、「言葉」である。
私たちの語る言葉が、人を汚すと、主イエスは言っておられるのだ。
では、どういうことか。この言葉は、どこから出て来るのであろうか。
主イエスは言われる。「内側から、すなわち、人の心から出て来る」のだと。
そして続けて言われた。
「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
預言者エレミヤはこう言っている。
『人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ書17:9)』
私たちの心の中には、何も良い物がないのだ。それゆえ私たちの心にあるものが、口から言葉となって出て行くのである。
しかし、感謝なことに、主イエスは約束の御霊を、聖霊なるお方を送ってくださった。
『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネの福音書14:16~14:17)』
聖霊様の力を借りなければ、聖霊様に住んでくださらなければ、共に歩んでくださらなければ、何時まで経っても、私たちの心の中には「悪しき物」しか存在しない。
しかし、聖霊様と共に歩むならば、
『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ人への手紙5:16~5:23)』
私たちクリスチャンは、人を汚す言葉ではなく、人を励まし、人を生かす言葉を語るべきである。私たちの心の中に、御霊の実を多く結んで、そのような言葉を語ろうではないか。》