※本日の聖書箇所「ルカの福音書9章43節~45節」(新約p.133上段右側)
9:43 人々はみな、神の偉大さに驚嘆した。イエスがなさったすべてのことに人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。
9:44 「あなたがたは、これらの言葉を自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」
9:45 しかし、弟子たちには、この言葉が理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった。彼らは、この言葉についてイエスに尋ねるのを恐れていた。
◎メッセージ【十字架とは?】
《イエスは弟子たちにこう言われた。
「あなたがたは、これらの言葉を自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」
これは、第二回目の受難予告ではありません。おそらく、ピリポ・カイサリアにおいて、数日前になされた第一回目の受難予告の続きとも言えます。
第一回目の受難予告は、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」と語られ、そして「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」と語られたのです。
この時、主は初めて「十字架」という言葉を口にされました。弟子たちは、「殉教」することを恐れたかも知れないのです。しかし、主の言葉は、預言でもあって、実際には、十二弟子のほとんどが殉教することになります。殉教しなかったのは、二世紀初頭まで生きながらえたヨハネと、自ら命を絶ったイスカリオテ・ユダの二人だけです。そして、ユダの代わりに、十二使徒に加えられたマッティアも殉教したことが伝えられています。
さて、弟子たちには、この言葉が理解できなかったとあります。また、彼らは、この言葉について、主イエスに尋ねるのを恐れていたのです。
さて、キリスト教のシンボルは、「十字架」です。十字架とは、ローマ帝国が反逆者に対して考え出した、もっとも残酷な処刑方法です。私たちは、この死刑の道具である「十字架」を掲げています。また、十字架は異端と区別することに対しても、その基準となっています。
「旧統一教会」や、「モルモン教」や、「エホバの証人」は、自分たちをクリスチャンと称しながらも、十字架を完全に否定しているのです。
さて、主イエスは、ご自身のことを「人の子」とも言われました。この時、大勢の群衆の中には、律法学者たちが紛れていたことをマルコは書き記しています。つまり、主は、あえて彼らに聞こえるように「人の子」と言われたのです。
「人の子」とは、ダニエル書に登場する「神の子(メシア)」のことを指しています。大祭司カヤパは、「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」と言うと、すぐに主イエスは、「あなたが言ったとおりです。しかし、私はあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲と共に来るのを見ることになります。」』と答えられたのです。
この言葉は、ご自身が「神の御子」であり、メシアであることを公に宣言されたのです。主は真実を語られたのです。しかし、この言葉によって、主は死罪とされます。
今日のメッセージは「十字架とは」ということでした。この十字架こそが、私たちの誇りであり、また力の源であり、神様の愛の現われなのです。本来、十字架に掛かるべき者は、私たち一人一人なのです。主イエスが、身代わりとして死んで下さいました。それは、主を信じる私たちが、罪赦され、永遠の命を受けるためなのです。》