• 日々のみ言葉 2015年11月5日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年11月5日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書7章27節~28節】

    7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
    7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

    ◎ショートメッセージ

    《『イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。(マルコの福音書7:24~7:26)』

     この女は、主イエスの足もとにひれ伏した。この場所は、ツロのある家の中においてである。誰の家かは分からないが、宿ではないことは確かである。もちろん十二使徒も、そこに同行していたはずで、家の中にその女が入って来るのを、ただ黙って見ていたはずはないと言える。

     マタイは平行記事として、このように書き記しているが、若干マルコと異なっている。

    『それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
     しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
     しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
     しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
     すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
     しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイの福音書15:21~15:27)』

     マタイは、カナン人の女が叫びながら、主イエスの後をついて来たと書き記している。マルコは、この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであると書き記している。
     一体どちらが正しいのか、判断はつきかねるが、大切なことは、この女は、ユダヤ人ではない、と言うことにある。

     弟子たちの見ている前にて、ついに主イエスはその女に答えた。
    「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

     「子どもたち」とは、ユダヤ人のことを指す。主はユダヤ人として来られた。ユダヤ人の救い主として来られた。しかし主イエスは、「まず」と言われたのである。
    「子どもたち」とは、私たち主に従う者をも、指しているとも言える。まず私たちが満たされなければ、どうして他の人に与えることができろであろうか。

     主イエスは、女を「子犬」と呼んだのだ。この言葉は、決してその女を馬鹿にしたのではなく、主イエスはその女の信仰を試したのである。

     すると、その女は答えた。
    「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

     まず、女は「主よ。そのとおりです。」と告白していることに、私たちはしっかりと受け止めなければならない。
     女は、主イエスが、「メシヤ」であること、そして主権が主イエスにあることを、本当に信じているのである。そればかりではない。自分が、「子犬」であること、つまり「恵み」を受けるべき存在ではないと言うことを、受け止めているのである。主の御前にへりくだっているのだ。

     女は、自分の娘のために必死であった。女はあきらめなかった。ただ、ただ主イエスの御前にひれ伏して、願い続け、へりくだり続けたのである。

     私たちも、このように主イエスに、執拗に食い下がる信仰を持ちたいものである。私たちは、以外にもあきらめやすい者なのである。いや、あきらめてしまうのだ。

     あきらめてはならない。決してあきらめてはならない。必ずあなたの祈りと願いは、聞き届けられる。必ず、主の時はやって来る。主が、お決めになられたその時こそが、祈りと願いが成就する時である。》

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