※本日の聖書箇所「ルカの福音書9章46節~48節」(新約p.133上段左側)
9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
9:47 しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、
9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、私の名のゆえに受け入れる人は、私を受け入れるのです。また、だれでも私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」
◎メッセージ【一人の子ども】
《この記事は、三つの共観福音書に掲載されています。マルコの福音書では、
『一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」』となっています。
主イエス一行は、カペナウムのシモン・ペテロの家に戻って来ました。そのさいに、弟子たちは「だれが一番偉いのか」と論じ合っていたのです。もちろん主はご存じです。それゆえ彼らに尋ねられたのです。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
彼らは、答えることが出来ませんでした。そこで、主イエスは、一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いたのです。
今日は「一人の子ども」と言うタイトルです。この子どもの名前は分かっていません。しかし、シモン・ペテロの子どもであることは、間違いありません。子どもたちも主イエス様をおばあさんに負けないくらい慕っていたと思われます。主は言われます。
「だれでも、このような子どもを、私の名のゆえに受け入れる人は、私を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」と。
当時のイスラエルでは、子どもたちは価値のないものという認識がありました。その理由の一つは、ユダヤ人が子だくさんであったことです。しかし、主イエスは、その風習と文化に対して、新しい認識を示されたのです。
主イエスは、真に子どもたちを愛しており、大切な一人の魂であることを示されたのです。
しかし、この教えを受けたにも関わらず、十二弟子たちの意識はすぐには変わりませんでした。それゆえ、主イエスは、再び、弟子たちに教えることになるのです。
ある時、主イエスに触れていただこうと、母親たちが子どもたちを連れて来たことがありました。ところが十二弟子たちは彼らを叱ったのです。主は弟子たちを叱りつけます。
「子どもたちを、私の所に来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言われ、主イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されたのです。
ここから、主イエスがどれほど「子どもたち」を愛しておられることが分かります。子どもたちの魂は、まだ汚れてはおらず、純粋で素直であり、信仰においても疑わず、柔らかな魂を持っています。
最後に、一人の子ども、すなわちペテロの子どもこそ、私たち一人一人を表わしています。
私たちは、父なる神様の子どもですが、主イエスに取っても、一人の子どもなのです。主の溢れるばかりの愛がなければ、私たちは生きては行けません。
また何時も、主の御前にへりくだる必要があります。そして、一人の子どものように、主に対して、何時も素直な心と魂を持ち続けるべきです。このお方を信頼し続け、心から信じて行きましょう。やがて、空中にて、お会いするその日まで、主の御顔を拝するその時まで、主と共に、一人の子どもとして歩き続けて行こうではありませんか。》