• 日々のみ言葉 2015年11月8日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年11月8日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書7章32節】

    7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

    ◎ショートメッセージ

    《『それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。 (マルコの福音書7:31)』

     主イエスと十二使徒の一行は、デカポリス地方にやって来た。
    「デカポリス」とは、ギリシャ語で「十の町」という意味である。
     これら十の町ガダラ、カナタ、ゲラサ、スキトポリス、ダマスコ、ディオン、ヒッポス、フィラデルフィヤ、ペラ、ラファナは、アレクサンドロス大王の後継者たちによって建てられた。
     これらの都市は、東方におけるギリシヤ都市としてギリシヤ語を話す移民の者たちを多く引きつけ、ギリシヤ文化の中心となっていた。

    そして「デカポリス地方」とは、西にスキトポリス、北にダマスコ、南にフィラデルフィヤとほぼ三角形の地域で、旧約のギルアデがその中心に当る。これらの都市は、主要通商路、軍用道路に沿った戦略上重要な場所にあった。
     デカポリスの諸都市はそれぞれ議会を持ち、その周辺地域を支配し、貨幣鋳造権、裁判権、暦に関する権限を持っていた。
     またゲラサ、フィラデルフィヤの発掘で知られるように、ギリシヤ・ローマ風の都市で、円柱のある幅広い街路、円形広場、神殿、野外劇場などがあった。

     主イエスが、再び「デカポリス地方」に来られたことを聞き、また大勢の群衆が押し寄せて来た。そして人々は、主イエスの御もとに、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来たのである。
     耳が聞こえなければ、当然話すことは出来ない。人々が連れて来たのは、おそらく生まれつき耳が聞こえず、話すことの出来ない人であったと思われる。

     私たち人間は、普通、目で見ることが出来、耳で音を聞くことが出来、また話すことが出来る。もし一つでも障害があったとしたら、いかに不便であろうか。

     ヨハネは、主イエスが、エルサレムに入場される前、道の途中で一人の生まれつきの盲人の若者をいやされたことをその福音書に書き記した。それによると。

    『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
     イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
     イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
    「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(ヨハネの福音書9:1~9:7)』

     ここで、弟子たちの質問と主イエスのお答えに注目したい。
    「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

     当時は、目が見えないこと、耳が聞こえず口がきけないことは、その人もしくは先祖の罪の結果としての呪いと信じられていたようである。弟子たちでさえも、そのような理解をしていたというわけだ。

     しかし主イエスは、このように答えられた。

    「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

     群衆の人々は、なぜ主イエスの御もとに、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来たのであろうか。本当に彼に対する哀れみから、主イエスにいやしていただきたいと心から思って、手を置いてくださるようお願いしたのであろうか。
     それとも、主イエスが何か奇蹟を起こすことを見たいが為に、連れて来たのであろうか。
     この後、彼はいやされる事となる。まさしく神の栄光が現わされるのである。「デカポリス地方」は異邦人の町である。ギリシャ人やローマ人が多くいた町である。
     この集まって来た人々は、ほとんどがユダヤ人ではなく、異邦人であった。この時にも救いは、すでにユダヤ人だけでなく他の民族にも、もたされ始めたのである。》

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