• 日々のみ言葉 2015年11月9日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年11月9日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書7章33節~35節】
    7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
    7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
    7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。

    ◎ショートメッセージ

    《『人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。(マルコの福音書7:32)』

     主イエスは、再びガリラヤ湖半にある「デカポリス地方」に来られた。デカポリスとは、十の町と言う意味で、ガダラ、カナタ、ゲラサ、スキトポリス、ダマスコ、ディオン、ヒッポス、フィラデルフィヤ、ペラ、ラファナのことを指す。実際に主イエスが、具体的にどの町に立ち寄ったのかは、マルコは書き記してはいない。
     ともあれ異邦人の人々が、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来たのであった。

     主イエスは、まずその人だけを群衆から連れ出した。

     なぜ、主イエスはそのようなことをされたのであろうか。
    ここで考えられることがある。主イエスが、人々に連れられて来たからではなく、この人自身の心からの願いを確認するためでなかったか。耳が聞こえず、口がきけないのに、どうやって。もちろん彼は目は見えている。
     私たちは、主イエスがただの人間ではないことを知っている。主イエスは、人の心が読むことが出来る。そればかりではない。霊的見知から言っても、主イエスが、その霊を通して、耳が聞こえず話せない人の心を知ることが出来たと考えることの方が妥当ではないか。

     マルコは、福音書10章において盲人バルテマイのいやしのことを書いている。

    『彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
     ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
     そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
     すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
     すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
    そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(マルコの福音書10:46~10:51)』

     ここでは、主イエスがバルテマイに、「私に何をしてほしいのか」と質問したことが書かれている。もちろん盲人なのであるから、目を見えるようにして欲しいと言うことは言わなくとも分かるものだ。しかしあえて主は、聞かれたのである。このように主イエスは、私たちに具体的に「何をしてほしいのか」、話すことを望まれていると言える。

     そして、次に主イエスは、不思議なことをされた。

    『その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。』

     これは、耳の聞こえない彼に、主イエスご自身の指が、耳をいやすことのしるしとして本人に実感させることであり、また目の見える彼に、主イエスご自身が、舌のもつれをいやすための行為であったと、理解出来る。

     すると、この後すぐに。

    『すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。』

     まさしく神の栄光が現われたのである。そして彼自身が、主イエスがいやしてくださったことが、はっきりと分かったのである。

     主は、癒やし主であられる。それは昔も今も変わらない。このお方は永遠に変わることのないお方である。
     私は、今も、この現在になっても、主イエスは、「神の器」を用いて、耳の聞こえない人に「エパタ」と、いやされる事を信じる者である。

     耳の聞こえない人が、突然耳が聞こえ、そして話せるようになったとしたら、どれほどの驚きようであろうか。また目の見えない人が見えるようになったとしたら、どれほどの世界が待ち望んでいるのか。目が見え、そして耳が聞こえ、話することの出来る私たちには、実感できにくいかも知れないが、もしこの事が、日本のあらゆる場所において起こったとしたら、間違いなく日本にリバイバルが訪れた証拠となるに違いない。

    「わたしに何をしてほしいのか。」

     主イエスよ。日本に来て下さい。再びに。そして大リバイバルを起こして下さい。》

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