※本日の聖書箇所「ルカの福音書11章5節~10節」(新約p.137上段左側)
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私の所に来たのだが、出してやるものがないのだ。』
11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』
11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。
11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
◎メッセージ【求める者たちその①】
《主イエスは、「主の祈り」を教えられました。そして、一つのたとえを話されたのです。
「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人の所に真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私の所に来たのだが、出してやるものがないのだ。』
イスラエルは、日中は暑いため、当時は日が傾いた夕方から夜にかけて旅をすることが一般的だったようです。その為、お客が夜中に訪ねて来るということは、良くあることでした。
「面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。」
この言葉には、当時の一般庶民の住宅事情がからんでいます。一家は一つの部屋の中で暮らしていたのです。寝る時には、家族の者たちが、一室にぎっしりとなって寝ていたのです。
また、普通ならば余分のパンがあるはずですが、この時に限ってパンはなく、訪ねて来た友人をもてなすことは出来なかったのです。
「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」
ここに登場する「友」こそが神様なのです。主イエスは弟子たちに、「私はあなたがたを友と呼びます。」と言われました。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」
これこそが「取りなしの祈り」の真髄なのです。私たちが、人の為に祈る時、神様は聞いて下さいます。しかし願いが成就するまで、熱心に祈り続ける必要があります。また、これは、「取りなしの祈り」だけに限ったことではなく、個人的な祈りにおいても当てはまります。
「求めなさい。そうすれば与えられます。」
一体何を求めるのでしょうか。それを、具体的に示す必要があります。。
「探しなさい。そうすれば見出します。」
一体何を探すのでしょうか。何を探しているのかを、明確に把握する必要があります。
「たたきなさい。そうすれば開かれます」
何をたたくのでしょうか。具体的に、何を開いてほしいのか、的を絞る必要があります。
そして、祈り求め続けますと、神様は最も良い時に、それを叶えて下さいます。
『すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』と、伝道者の書に書かれている通りなのです。》