◇◆◇2025年11月23日 第四日礼拝メッセージ
※本日の聖書箇所「ルカの福音書11章37節~41節」(新約p.139下段右側)
11:37 イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。
11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。
11:39 すると、主は彼に言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。
11:40 愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
11:41 とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。」
◎メッセージ【外側と内側】
《主イエスの話が終わると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした、とあります。多くのパリサイ人や律法学者たちは、主イエスに対して敵意を持っていましたが、この者は少し違っていたと、尾山先生は言われています。
そこで、主イエスは、彼の家に入って、食卓に着かれた、とあります。弟子たちも一緒について行ったことは間違いないことです。
そして、弟子たちも食卓に着いたと思われますが、彼らは、同じ食卓ではなく、別の食卓であったと考えられます。しかも、多くのパリサイ人や律法学者たちも招かれていたのです。
すると、そのパリサイ人は、主イエスが食事の前に、きよめの洗いをなさらないのを見て驚いた、と言うのです。
彼は、食卓の席に着く前に、手を洗ったに違いありません。当時のユダヤでは、入り口にきよめのための大きな水がめがいくつも置かれており、そこから水をすくって洗うことが一般的であったようです。
ヨハネの福音書における「第Ⅱのしるし」において、ガリラヤのカナにおける「水を葡萄酒に変える奇跡」の時にも、そのような水がめが用いられたことを私たちはよく知っています。
それでは、なぜ主イエスは手を洗おうとはしなかったのでしょうか。実は「きよめの洗い」という行為に問題があったからです。このことについて、マルコは、『パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。』と、書いています。
手を洗う行為については、モーゼの律法には書かれていません。また、彼らの書「ミシュナ」にも記載がないのです。これは、パリサイ人にだけ伝わる言い伝えであって、彼らを尊敬する一般的なユダヤ人たちは、それに倣っていたのです。
主イエスは、彼が驚く様子と、その内側の思いを、一瞬にして読み取られ、言われました。
「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。」
「杯」や「皿」とは、私たちの身体を表わしています。そして、「内側」とは私たちの「心」を表わしています。
「とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。」
施す心とは、他人を思いやる心のことです。人を許し、人を受け入れる心のことです。もっとも、聖霊の助けなくしては、内側を変えることは出来ないのです。
多くの人々は、外面は良くしようとします。しかしその内側はどうなのでしょうか。悪意や強欲などに支配されてはいないでしょうか。神様は私たちの心を見られるのです。神の子どもとされた私たちには、時々、いや常日頃、心の掃除が必要なのではないでしょうか。》