◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月3日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章32節】
9:32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
◎ショートメッセージ
《主イエスとその一行はピリポ・カイザリヤ近くの村から去って、ガリラヤを通ってカペナウムへ向かわれた。
主イエスは、人々に知られたくないと思われた。それは、主イエスが弟子たちと共に過ごせる時間が少なくなって来たのであり、それゆえ弟子たちを訓練することに重点を置き始められたからである。
特に、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と教えられたのであった。
しかし、弟子たちは、このみ言葉が理解できなかった。
主イエスは、政治的メシヤとしてこの世界に来られたのではなかった。しかし当時のユダヤの人々は、弟子たちも含めて、政治的メシヤ、あるいは軍事的救い主を求めていたのであった。
すなわち、ローマ帝国の圧政から、イスラエルを救い出してくれる軍事的指導者、そしてローマ軍や悪政を行なっていたヘロデ王一族郎党を滅ぼし、ユダヤ人を導く真の指導者であるメシヤを求めていたのである。
十二使徒たちを含め弟子たちは、皆が主イエスにそれを求めていたのであった。十二使徒たちは、主イエスが、大預言者エリヤのように、天から火を降らせてローマ軍もヘロデ王の軍隊をも一瞬にして滅ぼしてくれることを、今か、今かと待ち望んでいたのである。
ルカはこう書き記している。
『さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。
しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカの福音書9:51~9:54)』
これは、弟子のヤコブとヨハネが「私たち」と言ってはいるが、主イエスに催促しているのである。
しかも主イエスの公生涯三年半年が終わろうとしている時であったとしても、主イエスの側近であるゼベタイの子ヤコブとヨハネが、このように考えていることから、十二使徒たちの主イエスに対する理解、期待は、まさしく政治的・軍事的メシヤであったのだ。
そのメシヤなるはずの主イエスが、どうして人々に殺されることになるのか。彼らは理解することはもちろん、想像することもできなかったのだ。
また弟子たちは、主イエスに尋ねるのを恐れていた。
いつもなら主イエスに、「先生。それはどのような意味でしょうか。」と尋ねて、主イエスが話された「例え話」の解き明かしを求めていたにも関わらず、このみ言葉に対しては、主イエスに尋ねることをためらっていたと思われる。
これは、どういうことか。
もし、シモン・ペテロが主イエスに、
「先生。『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。』とは、どういうことでしょうか。」と、聞いたとしたら、主イエスはどうされたであろうか。
私は、主イエスが詳しく使徒たちに解き明かされたと、確信している。
それだからこそ、主イエスが答えられることを知っていたからこそ、弟子たちは尋ねることを恐れたのである。
尋ねることを躊躇したのである。
尋ねることをしなかったのである。
いや尋ねられなかったのだ。彼らは、真理を知ることを恐れたのだ。
十二使徒たちの期待と希望のうらはらに、主イエスの霊的メシヤとしての役目は進行し続けていた。
主イエスの『十字架』と『復活』、このことを実際に通らなければ、彼らは理解することは出来なかったのだ。
主イエスに出会うこととは、どういうことだろうか。
それは、その人自身が「十字架」と「復活」を通ることを意味する。
主イエスは言われた。
『「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイの福音書16:24~16:25)』》