• 日々のみ言葉 2016年1月5日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年1月5日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書9章35節】

    9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

    ◎ショートメッセージ

    『主イエスと十二使徒たちの一行はカペナウムに着いた。もちろんガリラヤ伝道の拠点であるシモン・ペテロの家である。この家の跡は今でも残されている。
     さてシモンの妻や姑の篤い持て成しを受けた主イエスは、弟子たちに質問された。

    「道で何を論じ合っていたのか。」

     彼らは黙っていた。いや答えることが出来なかったのだ。
    なぜなら彼らは、道々、誰が一番偉いかと論じ合っていたからである。

     主イエスはお座りになられた。そして十二使徒に集まるように言われた。
     十二使徒は、主イエスの御側に集まって来た。おそらく主イエスを囲むようにして、彼らは座ったのではないだろうか。

    「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

     これが真のリーダーなのである。これが真の指導者なのである。
     主イエスは、確かにそのように生きられた。そして身をもって弟子たちにそのことを教えられた。

     それは、主イエスが公生涯において四回目となる「過越の食事」の時にである。そう、十字架に架けられる前日、すなわち金曜日の夜のことなのである。

     ヨハネの福音書によると、

    『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
     夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
     それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
     こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
     イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
     ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
     シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
    イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
     イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
    それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネの福音書13:1~ 13:15)』

     これが、リーダーである。
     このようになされた主イエスのリーダーシップのことを、『サーバント・リーダーシップ』と呼んでいる。これが真のリーダー・シップとして現在注目されているのである。

    「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

     幸いに私たちは、このようにその生涯を捧げられた素晴らしい人物を知っている。ノーベル平和賞を受賞した、今は亡き「マザー・テレサ」である。

     主イエスのこの教えは、非常に実行することが難しいものである。もちろん我力では、到底成しえることが出来ない。

     しかし私たちには「助け主」、聖霊なるお方がおられる。
     そのお方は、私たち「イエスを主と告白する者」の中に住んでくださっている。共にいてくださっている。そのお方の助けなくしては、出来るはずもない。

     もしそのお方により頼んで、その助けてくださることを信じて、一歩を踏み出すとしたら、少しでも主イエスに近づくことが出来ると私は信じる。》

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