◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月6日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章36節~37節】
9:36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
◎ショートメッセージ
『主イエスと十二使徒の一行は、ピリポ・カイザリヤでの宣教の働きを終えて、ガリラヤを通り、カペナウムのシモン・ペテロの家に戻られた。
そして、その帰り道の道すがら、弟子たちが、「誰が一番偉いのか」論議していることを知って、彼らに教えるために、十二弟子を呼び寄せて言われた。
「誰でも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
それから、主イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せられたのである。
さて、この子は一体誰の子どもであろうか。「ひとりの子ども」あるいは「幼子」と書かれたあることから、3・4歳くらいであると思われる。要するに一番可愛い頃である。
聖書には書かれていないが、この子がシモン・ペテロの子どもである可能性が一番高いと言える。
シモン・ペテロが結婚していることは、はっきりと聖書に書かれている。やがてその妻が弟子となって、主イエスが昇天された後、夫と共に宣教の働きをするようになることを、パウロはその書簡に書き記している。またペテロだけではなく、他の使徒たち、そして主イエスの兄弟たち(ヤコブ・ユダ・ヨセ・シモン)が結婚していたことは間違いない。
『私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。(第一コリント9:5)』
結婚していれば、当然子どもがいることになる。しかもユダヤ人は子だくさんである。ヨセフとマリヤの間にも、主イエスを入れて少なくとも7人の子どもがいたことは明白である。
さて、当時のユダヤ社会では、実は子どもは、今の日本のように純真無垢な者、可愛い者ではなく、取るに足らない者、または価値の無い者、つまらない者とされていた。
「誰でも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」
つまり、ここで主イエスの言われていることは、このような幼子や取るに足らない者に仕える者こそが、一番偉いのだ、と言うことである。
そして、そのような幼子のひとりを、価値の無い者ではなく、主イエスと同じように価値ある者として受け入れる、すなわち仕えるならば、それは主イエスに仕えると同じことだ、と言うことである。
「また、誰でも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
そして、そのような幼子のひとりを、受け入れた者は、主イエスを受け入れるだけではなく、父なる神をも受け入れる、と言うことである。
要するに、見下されている者や、社会においては価値の無い者に仕える者こそが、一番偉いのであり、その者こそが主イエスに、そして主イエスを遣わされた父なる神、すなわち創造主なる神に仕えることとなる、と主イエスは教えておられるのだ。
この時の十二使徒たちの顔色は、いかばかりであったであろうか。彼らの常識と理解とは、全く異なったことを主イエスは教えられた。普通、偉い人、尊敬する人に仕えることが、価値あることとされていたからである。
主イエスは、本当に子どもを愛された。子どもたちを大切にされた。もちろん子どもであっても罪人には変わらない。私たちは罪を持って生まれてくる。例え0歳の赤子であっても、自分を主張することには、生まれながら長けている。
愛の修道会を設立された「マザー・テレサ」は間違いなくこのように生きられた人であった。マザー・テレサは、何よりも「魂」を大切にされる人であった。まるで主イエスのように。
私たちはどうであろうか。人の「魂」に目を向けているであろうか。「魂」とは、その人をその人としている「人格」その物のことである。
あるいは、その人の「個性」もしくは「存在」と言っても良い。「魂」を大切にすることが、その人の「霊の救い」につながるのではないだろうか。》