◇◆◇日々のみ言葉
2016年9月11日(日)
◎聖書箇所 【ルカの福音書1章42節~45節】
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
◎ショートメッセージ
《昨日の続きの学びとなります。
「本当に、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。」
これは、バプテスマのヨハネの母であるエリサベツだけが体験し、また味わったことです。胎にいる子どもが喜び、また踊り出したことについては、彼女しか分からないことです。しかし彼女には分かったのです。それは母であり、また聖霊が教えられたからです。
次に、
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
と、エリサベツは語ります。
これこそが、本日の最大の学びでありポイントなのです。
主によって語られたことを信じなかった人がいます。いや、信じることが出来なかったと言い換えた方が良いかも知れません。
果たして、いったい誰でしょうか。そうです。エリサベツの夫の祭司ザカリヤです。
ザカリヤは、御使いを見たにもかかわらず、またその御使いから「喜びのおとずれ」の言葉を告げられたにもかかわらず、まったく信じることが出来なくて、なおかつそのしるしを求めたのです。それゆえ、そのしるしがザカリヤ自身の体に刻まれて、口がきけなくなってしまったのです。もちろん一定期間だけですが。
しかしマリヤは違います。マリヤは、柔らかな心を持っていたのです。処女として、純真無垢であったように、その信仰も、混じりけのないものであったのです。この点こそが、カトリック教会がマリヤを崇敬する所以なのです。
ところで、私たちの信仰はどうでしょうか。ザカリヤの側でしょうか。それともマリヤの側でしょうか。自分自身を良く吟味する必要があるかと思いますが、いかがでしょうか。
もっとも信仰は、聖霊様の賜物であり、また実でもあり、また育てて行くものなのです。育てて行くと言うことは、神様を信じ信頼し続けることです。何があってもです。
私たちの信じている神様は、とても良いお方です。愛あふれるお方なのです。》