◇◆◇日々のみ言葉
2016年9月12日(月)
◎聖書箇所 【ルカの福音書1章46節~55節】
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
◎ショートメッセージ
《今日から有名なマリヤの賛歌である「マグニフィカト」を学びます。
ラテン語では、冒頭に「あがめる」を意味する単語が置かれています。それが「マグニフィカト」です。
このマリヤの賛歌に、多くの音楽家が作曲しました。一番有名な曲は、J.S.Bachの合唱曲「マグニフィカト」です。それほど、聖書の中では、愛されている「賛歌」なのです。
それにしても、本当にすごいことではありませんか。まさに奇蹟です。
エリサベツの「預言」も、マリヤの「賛歌」も、そして生まれたばかりの洗礼者ヨハネが割礼を受けた時に、その父ザカリヤが語った預言「ベネディクトゥス(ラテン語)」も、ほぼ完璧な形で残されていることがです。
特にマリヤの賛歌「マグニフィカト」を耳にしたのは、マリヤ本人とエリサベツだけなのですから。聖霊様が働かなければ、あり得ないことです。
主イエス様は、弟子たちにこう言い残されました。
『「しかし助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネの福音書14:26)』
この言葉の成就こそが、「新約聖書」なのです。福音書が書かれたのは、最も早いと言われている「マルコの福音書」でさえ、主イエス様がオリーブ山において昇天されてから、二十数年後のことであり、ルカが書き記している本日の聖書箇所は、イエス様がお生まれになる、三十数年前のことであり、あわせますと何と五十数年から六十年前となり、まさに半世紀以上の歳月が流れているのです。
マリヤは、その言葉を羊皮紙に書き留めていたかも知れませんね。もちろん、これも私個人の推測ですが。
マリヤは言いました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
ここではっきりと、「たましい」と「霊」は、違う存在であることが分かります。「たましい」は、知性の場であり、また感情の源です。
そして「霊」とは、その人の本当の存在であり、「霊」こそが、霊的存在である神様との交わりを行なうことが出来るのです。私たちも、このマリヤのように、霊によって、そして知性と感情をも用いて、それと共に、体全体をも使って、主イエス様を礼拝しようではありませんか。
まことの礼拝とは、私たちの体の奥底に住んでいる「霊」が、神様の霊であられる聖霊様との人格的交わりの中に、行なわれるものなのですから。》