◇◆◇2017年11月5日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書12章27節~33節】 (新約p.187下段右側)
12:27 今私の心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時から私をお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、私はこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「私は栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、私のためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32 私が地上から上げられるなら、私はすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
◎メッセージの概要 【天の父からの声】
《イエス様は、訪問しに来たギリシヤ人たちに、そして弟子たちに聞こえるように言われました。「この時」とは、一粒の麦が死ぬことを、すなわち十字架を意味しています。
すべての人は、一度死ぬことと死後裁きを受けることが定められていますが、この世に生を受けて生まれて来るのは、その人それぞれの人生を歩む為であり、生きる喜びを味わう為であるはずです。 誰も死ぬ為に生まれて来るのではありません。しかし主イエス様だけは違うのです。イエス様は、十字架にかかって身代わりの死を遂げる為に生まれて来られたのです。こんな人は誰もいません。
「天の父からの声」は、イエス様の公生涯において三度ほどありました。最初は、バプテスマのヨハネにより洗礼を受けられた時です。
「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」
この声を聞いたのは、誰でしょうか。イエス様、そしてヨハネ、またシモン・ペテロの弟アンデレとゼベタイの子ヨハネも聞いたに違いありません。
二回目は、三つの共観福音書すべてに書き記されています、ヘルモン山におけるイエス様の変貌の時です。この時には、シモン・ペテロとゼベタイの子ヤコブとヨハネだけが、その有様を目撃し、天の父からの声を聞いています。
「これは、私の愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」
そして、三回目が今回の聖書箇所となります。
「私は栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
この声が、大空に響いた時、群衆は、雷が鳴ったのだと言い、また他の人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言ったのです。しかしイエス様はこのように言われました。「この声が聞こえたのは、私のためにではなくて、あなたがたのためにです。」ここでイエス様は、はっきりと「声」と言っておられます。また「あなたがたのため」とも言っておられるのです。
誰の為なのでしょうか。十二使徒の為にです。十二使徒の中において、最後の晩餐を終え、あと数時間でイエス様が捕らえられる直前まで、彼らは誰が一番偉いのか、論じ合っていたのです。この時には、すでにユダはいませんでしたが。良く良く考えますと、一番偉いと論じ合うことが出来たのは、四人に絞られることが分かります。それはシモン・ペテロとその弟アンデレ、そしてゼベタイの子ヤコブとヨハネです。最後の天からの父の声は、十二使徒全員が聞いていますが、最初の時は、ヨハネとアンデレ、そして二回目の時はペテロとヤコブとヨハネの三人。その回数から見て、まさにヨハネが一番偉いかのように思われるのです。
それゆえペテロは、復活の主イエス様にこのように聞いたのです。
「主よ。この人はどうですか。」
するとイエス様はペテロに言われたのです。
「私の来るまで彼が生きながらえるのを私が望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい。」
今日、この聖書箇所から学ぶことは、二つあります。一つは、最初の天の父からの声です。。「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」これはイエス様だけではありません。すべてのクリスチャンに向けられた言葉です。
そしてもう一つは、一回目と二回目の時は、限られた弟子にしか「天の父からの声」を聞くことが出来ませんでしたが、今回はすべての弟子たちが聞いたのです。これは残りの8人の使徒たちへの配慮でもあり、またイエス様こそが、父なる神様の栄光を現わされる御子であられることを、父なる神様が示されたのです。
弟子たちは、この中で誰が一番偉いのか、最後の最後まで論じ合っていましたが、復活の主イエス様は、ペテロに「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい。」と言われたのです。
私たちは、みな人格も、また環境も、そして与えられている賜物も違うのです。私たちは、すぐに人と比べてしまいます。しかし主イエス様が望まれることは、有るがままで、ご自分に従おうとする魂なのです。主イエス様は、あなたと共に歩まれることを、願っておいでなのです。》