• 2018年4月15日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年4月15日第三主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章5節~7節】 (新約p.191上段左側)
    14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
    14:6 イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
    14:7 あなたがたは、もし私を知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

    ◎メッセージの概要 【道、真理、いのちとは?】
    《トマスは時折、非常に重要な質問をイエス様にして、また奥義とも言えるような言葉と教えをイエス様から引き出しています。
    「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
     これは、イエス様が「私の行く道はあなたがたも知っています。」と言われたからです。
     トマスは、単純に「どこに行くのか、どの道を行くのか」を知りたかっただけなのです。 その答えが、「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」と言うことなのです。
    「道」とは?
     それは救いに至る道であり、いのちへの道であり、父なる神様の御もと、すなわち御国への、天国への道を指しています。
     イエス様は「山上の垂訓」において、弟子たちにこう教えられました。
    「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
     イエス様だけが「救いの門」であり、「狭い道」なのです。
     また、この言葉には、もう一つの意味も含まれています。それはクリスチャンが、人生における様々な分岐点に達した時などにおいて、どの道を進むべきかをも教えています。
     ダビデは詩篇においてこのように証しています。
    『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』
     誰にゆだねるのでしょうか。主です。新約時代の私たちは、主が誰であるのか知っています。イエス様です。イエス様は、あなたが進むべき道を教えて下さるのです。
     次に、「真理」とは?
     真理とは本当のこと、まことの道理であり真実を指し示します。
     ローマ総督ポンテオ・ピラトは、二回目における法廷裁判において、イエス様に三つの質問をしたのです。
    「あなたはユダヤ人の王ですか。」
    「それでは、あなたは王なのですか。」
    「真理とは何ですか。」
     今まで多くの哲学者が考え求め続けて来たこととは、何でしょうか。
     それは『人間はどこから来て、何の為に存在し、そしてどこに行くのか。』と言うことなのです。イエス様は、はっきりと言われます。「私が真理」であると。
     私たちは、神様によって、イエス様によって創造されたのです。
     何の為に。創造主なるお方、神様と親しい交わりをする為であり、神様の御わざを恵みを喜ぶ為に存在するのです。
     使徒ヨハネが、マタイ・マルコ・ルカの福音書が書かれて40年から50年以上も後に書き記した「第四福音書」の最初は、このように始まっています。
    「初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この方は、初めに神と共におられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
     イエス様こそが「真理」なのです。
     最後に「いのち」とは?
    ヨハネは、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」と言っています。「いのち」の反対語は何ですか。それは「死」ですね。
     ヘブル人への手紙の著者はこう言います。
    「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」と。
     これから逃れられる者は一人もいません。これはすべての人に当てはまるのです。
     イエス様は言われました。「私がいのちです。」と。
     イエス様が言われた「いのち」とは、それは「永遠のいのち」のことです。
     罪を悔い改め、主イエス様を救い主として心の奥で信じ、口で「イエス様は私の主です」と、告白する者は罪が赦され、救われ、「永遠のいのち」をいただけるのです。
     長老ヨハネは、愛するエペソ教会の人々にこのように手紙を送っています。
    「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
     御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
     私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせる為です。」
     そして最後に言われたことが、「あなたがたは、もし私を知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」と言うことですが、この事については、次回に学びたいと思います。》

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