◇◆◇日々のみ言葉
2018年11月29日(木)
◎聖書箇所【使徒の働き5章1節~11節】
5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。
5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。
5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
◎ショートメッセージ
《今日は、この事件全般について考えたいと思います。
これは新しい見解かも知れません。この事件を通して、神様は何を私たちに教えようとしておられるのでしょうか。
それは、主イエス様の十字架によって、罪赦された者は、人を赦しなさい、と言うことではないでしょうか。
確かに、アナニヤとサッピラは罪を犯しました。一部を残して置き、地所の代金全部と偽ったことは、大きな罪でした。
しかし、シモン・ペテロはどうであったでしょうか。彼は、何も罪を犯さなかったでしょうか。
マタイの福音書によれば、
『ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。
「あなたも、ガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、
「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。
「この人はナザレ人イエスと一緒でした。」
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、
「そんな人は知らない。」と言った。
しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、
「確かに、あなたもあの仲間だ。言葉のなまりではっきりわかる。」と言った。
すると彼は、
「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
そこでペテロは、
「鶏が鳴く前に三度、あなたは、私知らないと言います。」
とイエスの言われたあの言葉を思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。(マタイの福音書26:69~ 26:75)』と書かれているのです。
しかもこの記事は、四つの福音書のすべてに書き記されています。ヨハネも割愛しなかったのです。
ペテロは、公然にもイエス様を否定したのです。特に三回目は、「のろいをかけて」誓ったのです。これなどは、とんでもないことなのです。
しかし、イエス様は、よみがえられた後、ペテロの罪を赦されたのです。
ヨハネの福音書によれば、
『イエスは三度ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたは私を愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
イエスは彼に言われた。「私の羊を飼いなさい。」(ヨハネの福音書21:17)』と書かれています。
私たちは、主イエス様が十字架において、私たちの罪を赦して下さったにも関わらず、他人の罪を見過ごすことをせず、裁いてしまうのです。
よって、この記事は、シモン・ペテロの失敗として、教会の失敗例として残されたものであると私は思います。
明日は、「恐れ」について考えたいと思います。すなわち、5:5と5:11です。》