◇◆◇日々のみ言葉
2018年11月30日(金)
◎聖書箇所【使徒の働き5章11節】
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
◎ショートメッセージ
《これと同じようなことが、5:5 にも書かれています。
『アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。(使徒の働き5:5)』
つまり、何を恐れたかと言うことです。
私は三つあると思っています。
一つは、純粋に「罪」に対する恐れです。
罪を犯してしまう恐れでもあります。
イエス様は私たちの罪をすべて背負われて、十字架にかかられ死んで下さいました。そして三日目によみがえられたのです。
主イエス様を信じる者は、罪が赦され永遠の命が与えらています。
しかし、罪の体は依然として残されています。やがて栄光(復活)の体が与えられ、購われるその日までは、まだ罪を犯す可能性が大いに残されているのです。
そして、敵である悪魔は誘惑して来ます。アナニヤと妻サッピラにしたように。誘惑されるのは罪ではありません。その誘惑に同意し、行動を起こした時に罪を犯すことになります。
罪を犯すことの恐れ、それは罪から遠ざかるには、良い「恐れ」であると言っても、良いと思います。
二つ目は、「聖霊」もしくは「神様」に対する恐れです。
マルコの福音書には、
『まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。(マルコの福音書3:28~3:30)』と書かれています。
もし「聖霊を汚す罪」を恐れるなら、どう言うことになりますか。いつもビクビクして、神様に裁かれ、打たれないように、恐れてクリスチャン人生を送ることになりかねません。
それが、イエス様の望まれるクリスチャン人生でしょうか。
旧約時代と同じように、他の神々の祟りを恐れるように、聖霊を恐れて生きるとしたら、それが何の証しになるのでしょうか。
だからこそ、使徒パウロは、はっきりとこう勧めているのです。
『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(第二テモテ1:7)』と。
そして三つ目は、「ペテロ」、つまり「人」を恐れることです。
私たちが、畏れ敬うのは、イエス様だけなのです。すべての栄光は主のものです。主の御名が褒め称えられることによって、父なる神様に栄光が帰せられるのです。
この事件において、信徒たちが恐れたのは、もしかしたら「ペテロ」、つまり「人」ではなかったのではないでしょうか。
今日で、「アナニヤとサッピラ」の事件をひとまず終わりとし、先に進みたいと思います。》