◇◆◇日々のみ言葉
2019年7月12日(金)
◎聖書箇所【使徒の働き13章24節~29節】
13:24 この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
13:25 ヨハネは、その一生を終えようとする頃、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』
13:26 兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いの言葉は、私たちに送られているのです。
13:27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。
13:28 そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。
13:29 こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。
昨日は、バプテスマのヨハネが、サンヘドリンから遣わされたパリサイ人や律法学者たちに語った言葉について考えて見ました。
今日は、その後に語ったパウロの言葉について考えて見たいと思います。
もし当時、パウロがエルサレムにいなかったとしたら、ユダヤ最高議会が、すなわち大祭司を始め祭司長や祭司たち、律法学者や民の長老たちが、主イエス様に対して行なったことを、どうして知っているのでしょうか。
もし、主イエス様の十字架の受難についての詳しいことを、使徒たち、あるいはバルナバやヨハネ・マルコから聞いただけであるならば、どうして迫力に満ちたメッセージを語ることが出来ると言うのでしょう。
多くの学者は、パウロ(サウロ)は、エルサレムに在住していたが、イエス様の公生涯の時には、ほとんど関心を持たず、ただ十字架刑に処せられた「ナザレのイエス」と呼ばれた「預言者」がいたことはうわさで聞いていたには違いない、と考えているようです。
しかし、これは、たとえで言うならば、隣の家が火事であっても、私には全く関係ないと言っているようなものです。
サウロは、それほどまでに、世界で何が起こっているのかについて全く関心もなく、また鈍感であり愚鈍(ぐどん)な者なのでしょうか。
そのような愚か者が、どうして当時のイスラエル最高のラビであるガマリエルに師事することが出来ると言えるのでしょうか。また、新約聖書の約半数にも及ぶ書簡を執筆することが出来ると言うのでしょうか。
人は自分の目で見たこと、そして体験したことを、リアルに説明することが出来るのであって、人から聞いたことは、あくまでも間接的であって、そこには誤解や間違った情報が伴うことが多いのです。
パウロが、これほどまでに正確に語れるのは、彼が実際に自分の目で見聞きしたことが土台となっているからではないでしょうか。》