◇◆◇2019年7月21日第三主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書18章24節~27節】 (新約p.200上段右側)
18:24 アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
18:25 一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。
18:26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人と一緒にいました。」
18:27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。
◎メッセージの概要【第二回宗教裁判とペテロの否定】
《使徒ヨハネは、カヤパにおける第二回宗教裁判のことを、たった一行で説明しています。それが24節で、『アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。』とだけ書かれています。
3つの共観福音書は、若干異なりを見せていますが、マタイとマルコは、明らかにカヤパの尋問について書き記しています。この時、大祭司カヤパは、人類最大の質問をします。
「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
主イエス様は、
「私は、それです。」と答えられたのです。
また、大祭司アンナスとカヤパにおける宗教裁判と同時進行の形で、ペテロによる三度の主イエス様の否定が行なわれます。ヨハネは、最初の否定は、大祭司アンナスの裁判の時にあったことを書き記しています。
しかし共観福音書では、カヤパの裁判の時に、三回続けて否定したことになっています。
マタイの福音書によりますと、
『ペテロはみなの前でそれを打ち消して、
「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
そして、ペテロが入口まで出て行くと、他の女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。
「この人はナザレ人イエスと一緒でした。」
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、
「確かに、あなたもあの仲間だ。言葉のなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、呪いをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。』となっています。
しかしヨハネは、
『すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。』と書き記しています。
おそらくこれは、二つの質問がなされ、「そんな者ではない。そんな人は知らない。」とペテロが答えた可能性が高いと思われます。
ペテロが二回にわたって「そんな人は知らない。」と答えた時、彼は「最後の晩餐(過越の食事)」の時、主ご自身が言われた言葉(まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言います。」を思い出したはずです。
そして、イエス様が十二使徒に語った言葉をもペテロは思い出したに違いないのです。
「ですから、私を人の前で認める者はみな、私も、天におられる私の父の前でその人を認めます。しかし、人の前で私を知らないと言うような者なら、私も天におられる私の父の前で、そんな者は知らないと言います。」
鶏が泣きました。
ルカは、
『主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度私を知らないと言う。」と言われた主のお言葉を思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。』と書き加えているのです。この記事はルカの福音書にしかありません。
この眼差しこそが、悔い改めに導く、愛と哀れみと慈しみに満ちあふれたものなのです。
さて、カヤパがイエス様に、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と聞いた時に、イエス様は、「私は、それです。」と答えられました。
答えられたこの言葉こそが「エゴ-・エイミ」なのです。
イエス様は、かつてユダヤ人指導者たち、パリサイ人や律法学者たちに、明確に宣言されたことがありました。
『「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」』
最後の言葉は、「エゴ-・エイミ」なのです。この時、ご自身がヤーヴェなる神様であることを、明確にされた歴史的瞬間であったことを多くの聖書学者は支持しています。
反対にシモン・ペテロが、「そんな者ではない。」と言う言葉は、「ウーク・エイミ」です。ヨハネによりますと、門番の女中の最初の質問は、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」でした。
ペテロは「そんな者ではない。」と答えたのです。ただ「そんな人は知らない」と言うだけでなく「弟子であること」を、すなわち属性までをも否定してしまったのです。これが人間です。私たちも、追い詰められれば、同じことをしでかすかも知れないのです。
主イエス様は、「私はそれです。(エゴー・エイミ)」と言う真実の答えで、十字架にかけられます。その罪状は、『冒涜罪』、すなわち自分を神とした、と言うことによってです。
シモン・ペテロは、「そんなものではない。(ウーク・エイミ)」によって、その場を立ち去ることが許されました。
やがて「旗印」を明確に示さなければならない時代がやって来ます。その時、どちらの答えを私たちは選び出すのでしょうか。
「そんな者ではない。」
「私はそれです。」
その時私たちは、決してひとりではありません。
イエス様を三度否んだ時のペテロには、まだ聖霊は降ってはおられませんでした。しかし、イエス様が復活された後、聖霊が降臨され、ペテロは全く変えられてしまうのです。
私たちは畏れてはなりません。
勇敢でなければなりません。強くあって雄々しくなければなりません。
なぜなら、私たちには、何時いかなる時であっても、またどこであったとしても、主イエス様が共にいて下さるのです。
「見よ。私は、世の終わりまで、あなたがたと共にいます。」この約束は永遠に真実です。》