• 2020年7月19日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【使徒の働き3章6節~10節】
    3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
    3:7そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち彼の足とくるぶしが強くなり、
    3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
    3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
    3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。

    ◎メッセージ【立ち上がり、歩きなさい】
    《エルサレムにありますヘロデ神殿に、午後3時の祈りの時間に、ペテロとヨハネは、五旬節の日に救われ、新たにエルサレム教会に加えられた三千人の兄弟たちを教え導く為に上って行きました。
     この日が何時になるのかは、特定出来ませんが、聖霊が降られた日から、まだ数週間しか経ってない頃の出来事であると思われます。二人が異邦人の庭から婦人の庭につながっている「美しの門」に来た時、数人の男たちによって、生まれつき足の効かない物乞いの男性が、板のような物に乗せられ運ばれて来たのです。そして美しの門の横に置かれました。その人は、ペテロとヨハネを見ると施しを求めたのです。その時ペテロは彼を見つめてこう言います。
    「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と。
    「私にあるもの」とは何でしょうか。ペテロは人をいやす力を持っているのでしょうか。いいえ。違うのです。ここが最初のポイントとなります。
    「私にあるもの」とは、ペテロがまさしく持っているものであり、しかも真のいやし主であられる主イエスからいただいたもの。すなわち主イエスのみ言葉であり、約束なのです。主イエスは、十字架にかけられるまさにその日、十二使徒たちにこのように言われたのです。
    『「まことに、まことに、あなたがたに言います。私を信じる者は、私が行なうわざを行ない、さらに大きなわざを行ないます。私が父のもとに行くからです。また私は、あなたがたが私の名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをしてあげます。」』
     この言葉こそが、この約束こそがペテロの持つものであり、有るものなのです。
     さて次のポイントですが、主イエスが、人をいやされた場面、あるいはその人の娘や息子をいやされた場面において、よく言われたことが「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言う言葉でした。
     それでは、この「美しの門」に置かれた物乞いの男性には、その信仰があったのでしょうか。そのことを考えて見ますと、まず同じような場面が目に浮かんで来ます。それは、三つの共観福音書に掲載されています「中風の人」のいやしの場面です。マルコの福音書では、
    『イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口の所まで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみ言葉を話しておられた。
     すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。』
     ここで最も重要な点は、中風の人ではなく、彼を運んで来た四人の人のことです。主イエスは、その四人の信仰を見ていやしを行なわれます。
     この時、中風の人がいやされる為に、取りなしたのは、間違いなく友人である四人です。主イエスは、そのことをはっきりと見ておられます。中風の人には、いやされると言う信仰は、それほどまではなかったのです。
     さてそれでは、美しの門に置かれた物乞いの人の場合はどうであったでしょうか。この場合には、間違いなく使徒であるペテロとヨハネの二人です。それだからこそ、二人は、彼の右手を取って立たせたのです。すると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出したと言うわけです。これこそが私たちクリスチャンに与えられているものです。それは取りなしなのです。
     ヤコブはこう勧めています。
    『あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
     信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせて下さいます。ですから、あなたがたは癒やされるために、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。』と。
     取りなしこそが、私たちに与えられた大きな武器なのです。それゆえサタンは、全力で私たちから「祈り」を奪おうとするのです。取りなしの祈りをすることが、人々の救いへの新たな一歩を刻むのです。》

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