◇◆◇日々のみ言葉
2021年1月24日(日)
◎聖書箇所【マタイの福音書9章18節】
9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からです。今日はルカの福音書の並行記事を掲載します。
ルカは、
『さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。(ルカの福音書8:40~8:42)』と書き記しています。
ここから分かることは、ヤイロの娘は十二歳であることです。また、マタイは、「私の娘がいま死にました。」とヤイロの言葉を書き記していますが、ルカは、この時にはまだ死んでおらず、「死にかけていたこと」を書き記しています。
マルコも、
『「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。娘が直って、助かるようにして下さい。」(マルコの福音書5:23)』と書いており、同じく死にかけていたことが分かります。
三つの共観福音書を比較しますと、いったいどれが正しいのだろうか、と疑問が生じる違いを見つけることが有りますが、これは筆者が生きている人間であり、また、出来事を見る角度からの違いであって、その根本は、聖霊が導いておられることには相違ないのです。
また、これらのことから、「聖書は誤りなき神の言葉である」と言う真実と真理を疑うべきではありません。
さてマタイの記述におけるヤイロの言葉を見てみましょう。
「私の娘がいま死にました。でも、おいで下さって、娘の上に御手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります。」
この出来事は、主イエスの公生涯初期の頃の出来事です。まだ十二使徒全員はそろってはおりません。また、主イエスは、まだ誰をも死人を生き返らせてはいないはずです。 それゆえ、このヤイロの言葉は矛盾していることになります。またもし死んでしまったのなら、ヤイロはあきらめて主イエスの所にやって来ることはなかったはずです。
死にかけていたからこそ、必死になって主イエスを捜し出し、御前に進み出てひれ伏したのです。
また彼は、カペナウムの会堂にて行なわれた主イエスのいやしの奇跡を直接、見ていることは明らかです。それが「御手を置いて」と言う言葉から分かります。
さて、この後、主イエスは、ヤイロと弟子たちと共に、彼の家に向かいます。すると、十二年もの間、長血をわずらった女性が近づいて来るのです。》