◎本日の聖書箇所【マタイの福音書5章9節】
5:9「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
◎メッセージ【平和をつくる者】
《『「平安があなたがたにあるように。父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わします。聖霊を受けなさい。」』今週も今年の標題聖句から学びます。
主イエスは「平安があなたがたにあるように」と言われました。これは、私たちの心の中が平安であるように、とのことです。そしてそれは見せかけではなく、真の平安でなければならないと言うことです。平安とは心が穏やかなことを指します。
そして、主イエスは「平和をつくる者は幸いです」と言われました。平和とは、戦争や紛争がなく、世の中が穏やかなことを指し、もう一つの意味は、心配事やもめごとがなく、おだやかなことを指しています。
この世界は、争いごとや、もめごとが満ち溢れています。その中において、平和を作り出そうとするならば、その人自身の心が平和でなければならないのです。つまり心の中に異なった思いと思いが争っていたとしたら、その人は周りに平和を作り出すことは出来ません。
イザヤ書は、メシアなるお方が「平和の君」であることを預言しています。英語では、Prince of Peaceです。主イエスのことを「平和の王子」と呼びます。
この世界に真の平和は、近い未来に必ず訪れます。それが実現するのは、主イエスの再臨後のことです。「千年王国」は必ずやって来るのです。
しかし、それに先立って、私たちは私たちの周りに、神の子どもとして平和を作り出す使命が与えられています。先ほど言いましたように、その人自身が「平安」に満たされ、平和の中にその身を置いていなければ、周りの世界に何の影響も与えることは出来ないのです。人は霊的生き物ですから、霊は分かります。
その為には、どうしたら良いのでしょうか。それは私たちが何を土台として、この人生を生きて行くかにかかっていると言えるのです。
主イエスは、たとえを用いて弟子たちに教えられました。
『「ですから、私のこれらの言葉を聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
また、私のこれらの言葉を聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」』
このたとえの意味は、主イエスの言われたみ言葉、すなわち主イエス・キリストを土台として生きて行くことなのです。それが「岩の土台」の上に家を建てることなのです。
その反対に「砂の土台」の上に家を建てることとは、この世の価値観や常識の上に家を建てることを意味します。
もちろん常識は大切です。しかし神の子どもである私たちは、主イエスの言葉を、聖書の言葉をまず優先すべきです。
かつて、イスラエルの民は荒野を40年さまよいました。その時、神様は、彼らに「マナ」と言う御使いの食べ物を与え、40年間養われたのです。
出エジプト記を見ますと、毎日朝にはマナが地面に舞い降りたのです。しかし安息日(土曜日)には、マナは降り注ぎませんでした。その時、イスラエルの民は、週の初めの日(日曜日)にマナが本当に降り注ぐのか不安に駆られたことと思われます。
しかし神様の約束通り、日曜日からまたマナが降り注いだのです。ここから何を学ぶべきかと言いますと、神様は、私たちが必要な物をすべてご存じで、その日その日に与えて下さると言うことなのです。
主イエスは、「山上の垂訓」において、はっきりと約束しています。
『「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」』
現在、日本の経済状況はどんどん悪化し、さらにコロナ・ウィルスによってそれが加速しています。かつてEU内において、ギリシャが破綻したことは有名な事実です。それ以上に日本は、多くの借金をし続け、国家が破綻する時が近づいていることは間違いありません。
先の見えない不安と恐れの状況が続いています。しかし、その状況の中においても、私たちは神の子どもです。私たちは真理と真実を知っています。
それは、この世界を創造された神様がおられること。その名がイエス・キリストであること。そして神様が私たちのすべてを支配する主権者であることです。そのことを心から信じて歩んで行くところに、生きた本当の信仰があるのです。》